第10話:開かれた箱、そして少女は深淵に咲く
パンドラの背中に浮かび上がった「黒い翼」の紋章。
それは、垂直都市に渦巻く天文学的な量の絶望ポイントと、階層主たちが分け与えた強大すぎる加護が、彼女という小さな器の中で飽和し、ついに形を成した証だった。
「……やはり、こうなったか」
第6階層の玉座の間。ルシファー様が、沈痛な、しかしどこか悦びに満ちた表情でその紋章を指でなぞる。
「管理人よ。パンドラの箱の伝承を覚えているか? 最後に残ったのは『希望』だと言われているが、それは同時に、あらゆる厄災を内包し、制御するための『核』でもある。彼女は、この地獄そのものをその身に宿し始めたのだ」
ルシファー様の言葉に呼応するように、パンドラの体から溢れ出す魔力が、王宮の柱を次々と結晶化させていく。
パンドラ本人は、自分の背中の変化など露知らず、「ぱぱー! ぴこぴこ!」とアヒルの人形で遊んでいるが、彼女の周囲では空間が歪み、現実と虚無の境界が曖昧になり始めていた。
「このままでは、彼女の精神が肉体の成長を追い越してしまう。あるいは、強すぎる魔力に肉体が耐えきれず、自壊するでしょう」
私はタブレットを叩き、一つの「賭け」を提案した。
「ダンジョンの因果律を一時的に加速させます。パンドラを『安定期』まで一気に成長させる。リスクはありますが、階層主である皆さんの魔力を注ぎ込めば、彼女をこの世界の『主』の一人として固定できるはずです」
「……よかろう。我らすべての力を、この幼子に預けるというわけか」
崇徳上皇が扇子を閉じ、決然と頷いた。
小型化を解き、本来の巨体に戻ったフェンリルが、そして深海から思念を送るクトゥルフ様が、一斉に魔力を解放する。
「パンドラ、少しだけ長いお昼寝だよ。次に目が覚めたら、もっとたくさんお話ができるようになるからね」
私は、光の繭に包まれ始めたパンドラの額にキスをした。
彼女は不思議そうに私を見つめ、最後の一言を漏らした。
「……ぱぱ、また、あとでね」
――直後、管理事務所から放たれた虹色の光柱が、垂直都市の全7階層を貫いた。
それから、どれほどの月日が流れただろうか。
ダンジョン内では時間の概念が希薄だが、地上の暦ではおよそ「5年」の歳月が、一瞬の魔力奔流の中に凝縮されていた。
管理事務所。
かつてのベビーベッドは片付けられ、そこには小さな木製のデスクと、可愛らしい刺繍が施された椅子が置かれている。
コツ、コツ、と軽やかな靴音が響く。
「……パパ、第3階層のベルゼブブおじちゃんから、最新の『腐敗汚泥報告書』が届いてるよ。あと、第5階層のわんわん(フェンリル)が、また毛玉を吐いちゃったって」
現れたのは、5歳から7歳ほどに見える少女だった。
絹のような銀髪に、吸い込まれるような深淵の瞳。背中には、意志によって出し入れ可能な漆黒の翼が、お洒落なリボンのように折り畳まれている。
拾われた時のボロ布ではなく、ルシファー様が仕立てた最高級のドレスに身を包んだその少女――パンドラは、慣れた手つきで私に書類を差し出した。
「ありがとう、パンドラ。助かるよ。もうすぐ第1階層の『呪術試験』の時間だけど、準備はいいかな?」
「うん! 上皇のじーじに、新しい呪歌を教えてもらうんだ。あ、でもその前にルシファーおじちゃんと『傲慢なテーブルマナー』の練習もしなきゃ……。もう、おじちゃんたち、私を取り合いしすぎだよ」
パンドラは困ったように、しかしとても幸せそうに笑った。
かつて世界を滅ぼしかねない泣き声を上げていた赤ん坊は、今やこの地獄の垂直都市における「小さな女王」にして、私の「有能な助手」へと成長していた。
私は、すっかり大きくなった彼女の頭を優しく撫でる。
「パパ。私、決めたよ」
「何をだい?」
パンドラは窓の外――地獄の空を見上げ、力強く宣言した。
「私、このダンジョンを世界で一番『楽しくて、絶対に出たくなくなる場所』にする。絶望してやってくる人たちも、みんな私の友達にしちゃうんだから!」
それは、最凶の魔王たちすら想像しなかった、究極の「地獄運営計画」だった。
【ログ:パンドラが『幼児期』に到達。ステータスが大幅に向上しました】
【現在の絶望ポイント:∞(パンドラの笑顔により測定不能)】
【管理者の日記:彼女がペンを持てるようになったので、これからは二人で運営日誌をつけていこうと思います。……パパ、頑張るよ】
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