第9話:魔王たちのパパ(おじさん)争奪戦! パンドラが最初に選ぶのは誰?
垂直都市の管理事務所は、現在、氷点下と熱帯夜が同時に訪れたような奇妙な緊張感に包まれていた。
原因は、前回の地上への買い物から帰宅した直後の、パンドラの一言である。
『パパ……』
抱っこ紐の中で、彼女は確かに私をそう呼んだ。管理官として生きてきた私の人生で、最も心拍数が上がった瞬間だったことは認めよう。だが、問題はそれを「聞いてしまった」面々だ。
「……納得がいかん」
口を開いたのはルシファー様だ。彼は優雅に組んだ脚を組み替え、不敵な笑みを浮かべているが、その背後の翼がイライラと小刻みに震えている。
「なぜ、ただの事務員である貴様が『パパ』なのだ。高貴な血、圧倒的な魔力、そしてこの完璧な造形美。彼女の父親を名乗るに相応しいのは、どう考えてもこの私だろう」
「何を言うか、堕天使」
第1階層の主、崇徳上皇が扇子でルシファーを指した。
「我が一番長く彼女に教育を授けておる。日本古来の血縁を重んじるならば、我こそが『祖父』、あるいは『父』として敬われるべきよ」
『……我、触手、多い。……パンドラ、抱っこ、得意……。我、パパ……』
空中浮遊する小型クトゥルフ様まで、濁った思念を送ってくる。
「いいですか、皆さん。私は彼女の保護者であり、便宜上『パパ』と呼ばれただけです。皆さんは、いわば近所の親戚のような……」
「「「親戚だと!?」」」
凄まじいプレッシャーが事務所を襲う。棚に並んでいた「勇者の魂の瓶詰め」が、圧力でいくつか粉砕された。
「……わかりました。では、パンドラに決めてもらいましょう。彼女が皆さんのことをどう呼ぶか。それで文句なしですね?」
私は、お気に入りのアヒルの人形で遊んでいたパンドラを、円卓の中央に座らせた。
最強の魔王たちが、固唾を呑んで一人の赤ん坊を見守る。神々の戦争の前夜ですら、これほどの緊張感はなかっただろう。
「さあ、パンドラ。まずはあのおじさん。ルシファー様のことをなんて呼ぶかな?」
ルシファー様が、かつてないほど真剣な顔でパンドラを見つめる。彼は自らのカリスマ性を全開にし、瞳に誘惑の魔力を込めて囁いた。
「さあ、パンドラ。私を呼びなさい。この世で最も美しい響きの名を」
パンドラは、ルシファー様の輝く金髪と翼をじーっと見つめた。そして、小さな指を差し――。
「……きらきら、おじちゃん!」
「「「…………ぶっ!」」」
サタンとベルゼブブが同時に吹き出した。
ルシファー様の顔が凍りつく。
「きら……きら……? おじ、ちゃん……?」
「おめでとうございます、ルシファー様。あなたのアイデンティティは『輝き』にあると正しく認識されましたね」
「認めん……! 私は王だぞ! おじちゃんなどと……!」
落胆するルシファーを横目に、次は崇徳上皇が前に出た。
「ふっ、堕天使。所詮は外見だけの男よ。さあ、パンドラ。我をなんと呼ぶ?」
パンドラは上皇の赤い目と、背後の大きな羽根を見つめる。
「……こわい、じーじ!」
「ごふっ……!」
上皇が胸を押さえて膝をついた。「こわい」と「じーじ(祖父)」のダブルパンチである。
「我はまだ……若いつもりなのだが……。いや、だが『じーじ』とは、ある意味で家族として認められたということか……? ぐぬぬ、悪い気はせぬぞ……」
ポジティブな解釈を始めた上皇を放置し、次は小型化したフェンリルが、期待に満ちた目でパンドラに歩み寄った。尻尾が猛烈な速度で振られ、小型の竜巻が発生している。
『……クゥーン(パパと呼べ、パパと呼ぶのだ)』
パンドラは、フェンリルのモフモフした頭を両手で掴み、満面の笑みで叫んだ。
「わんわん!!」
『…………ガーン』
フェンリルは文字通り、真っ白に燃え尽きたようにその場に倒れ込んだ。最強の魔狼、ついに「犬」として固定される。
最後に、クトゥルフ様が触手をゆらゆらと動かしながら近づく。
『……我、は……?』
パンドラは、クトゥルフ様のヌメヌメした触手を見つめ、少し首を傾げてから言った。
「……ぐちゃぐちゃ!」
『…………(沈黙)』
深淵の主は、そのまま静かに天井の角へと浮いていき、壁のシミと同化した。
結果。
・ルシファー:きらきらおじちゃん
・崇徳上皇:こわいじーじ
・フェンリル:わんわん
・クトゥルフ:ぐちゃぐちゃ
「……皆さん、満足ですか?」
私が尋ねると、魔王たちは各々の「称号」を噛み締めるように黙り込んでいた。
「ふん……。まぁいい。彼女が成長し、私の真の価値を理解した時、呼び名は『我が王』へと変わるだろう」
ルシファー様はそう言って立ち上がり、鏡で自分の「きらきら」具合をチェックし始めた。どうやら気に入ったらしい。
私は溜息をつきながら、パンドラを抱き上げた。
【ログ:全階層主との『家族愛(?)』が深化しました】
【パンドラが言語を習得:語彙力が+5されました】
【管理者コメント:魔王たちが意外とショックを受けているので、明日の会議は優しく接してあげようと思います】
パンドラは私の腕の中で、「ぱぱ!」と笑ってアヒルを鳴らした。
最強の怪物たちが一人の赤ん坊に振り回される、平和な地獄の日常。
だが、この平穏は、パンドラに現れた「ある変化」によって、次の段階へと進むことになる。
「おい……。管理人、見てみろ。パンドラの背中……」
サタンの指摘に、私はパンドラの背中を覗き込んだ。
そこには、小さな、しかしハッキリとした「黒い翼」の紋章が浮かび上がっていた。
「……これは。まさか、彼女の『覚醒』が始まったのか?」
管理人の日常は、ついに「育児」から「世界の命運」へとシフトし始めようとしていた。
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