二人の旅
再び二人きりの旅になった。
交易都市を出て半日。砂漠は変わらない。風が砂を舐め、太陽が頭上から焼きつける。だが——空気が違った。
商隊と一緒だった頃は、常に人の気配があった。駱駝の足音、荷運びの男たちの声、傭兵の鎧が擦れる音、夜営の焚き火の匂い。人間がいる場所には、人間の音がある。今はそれが全部消えて、砂を踏む二人分の足音だけが残った。
静かだった。
だがこの静寂は、旅の始まりの頃とは違っていた。
あの頃——ウガルを出て砂漠に入ったばかりの頃——二人の間の沈黙は、壁だった。神と人間の間にある、埋めようのない距離。アナトはアシュタルを「道具」として見ていたし、アシュタルはアナトを「契約相手」として計算していた。沈黙は気まずさであり、警戒であり、互いを値踏みする間合いだった。歩幅が合わなかった。呼吸が合わなかった。隣にいるのに、別々の砂漠を歩いているようだった。
今は違う。
沈黙が、ただの沈黙だった。言葉がなくても不自然ではない。隣を歩いている相手の存在を、耳ではなく、もっと別の何かで感じ取っている。信頼とまでは言わない。だが——慣れた。互いの歩幅に、互いの息遣いに。アナトの歩幅は大きい。アシュタルは小走りにならない程度に合わせる。それが自然にできるようになっていた。
いつからだろう。気づいたら、そうなっていた。
夕方になった。
ハダドの地図に記されていた岩場に到着した。風を防げる窪みがある。夜営に適した場所だ。地図の正確さに感謝した。ハダドと、そしてザバルたちに。
荷物を下ろした。
「火を起こします」
言いかけた時、アナトがすでに動いていた。岩場の周囲に散らばっている乾いた灌木を集め、腕に抱えて戻ってくる。赤い髪が夕日に染まり、灌木を抱えた姿が妙に人間くさかった。
以前はこんなことはなかった。
旅の初めの頃、夜営の準備はすべてアシュタルの仕事だった。火を起こし、水を配分し、食事を用意し、見張りの手筈を整える。アナトは剣の手入れをするか、闇の中を睨んでいるかのどちらかで、人間の営みに手を貸すことはなかった。神は焚き火を必要としない。食事も要らない。夜営の準備など、人間の都合だ。手を貸す理由がない。
それが、変わっていた。
いつからだろう。砂嵐の後あたりからか。あるいはもっと前から、少しずつ、少しずつ。本人はおそらく意識していない。「手伝おう」とも言わなかった。ただ、気づいたら動いていた。戦女神が灌木を集めている。それが自然な光景になっていた。
アナトが灌木を焚き火の場所に置いた。アシュタルが火打ち石で火を起こした。乾いた枝に炎が移り、ぱちぱちと音を立て始めた。煙が岩壁に沿って立ち上り、夕暮れの空に溶けた。
水を配分した。水袋の残量を確認し、帳面に記録する。南への旅程と照らし合わせ、一日あたりの使用量を計算する。商隊の時は水の心配は少なかった。二人きりでは、一口の水が生死を分ける。枯れ井戸まであと一日。水が出れば余裕が生まれる。出なければ——出なかった時のことは、出なかった時に考える。
アナトが焚き火の傍に座った。膝を立て、腕を膝の上に組んでいる。炎の光が赤い髪を照らし、金色の瞳に映っている。火の色を映した金色は、琥珀に似ていた。
アシュタルも座った。干し肉を噛みながら、焚き火を見つめた。硬い肉だ。噛むたびに顎が疲れる。だが腹は減っていた。
沈黙。
焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がり、星に混じって消えた。
「お前」
アナトが口を開いた。炎を見つめたまま。
「怖くないのか。冥界に行くのだぞ」
アシュタルは干し肉を飲み込んだ。
正直に答えた。
「怖いです」
間。焚き火が爆ぜる音だけが聞こえた。
「膝が笑うかもしれません。声が震えるかもしれません。——でも、帰らなきゃいけない理由があるから、死ぬわけにはいかない」
アナトが鼻で笑った。
「……死なない体でその台詞か」
そうだった。「捧げもの」の印のせいで、アシュタルの体は簡単には死なない。傷は塞がり、病は癒える。「死ぬわけにはいかない」と言う人間が、実際には死なない体を持っている。皮肉な話だ。
「死なないことと、生きていることは違います」
言ってから、自分でも驚いた。弟のことを考えていたのだろう。弟は「死なない」。呪いのおかげで。だが味を失い、声を失い、触覚を失いつつある。心臓は動いている。息はしている。傷は治る。でも——それを「生きている」と呼べるのか。世界を感じる手段を一つずつ奪われていく。生きたまま世界から切り離されていく。それは——死よりも残酷かもしれない。
アナトは何も言わなかった。
焚き火の炎が二人の顔を橙色に染めている。影が岩壁に伸び、揺れている。砂漠の夜は静かで、虫の声すら聞こえない。遠くで風が砂を巻き上げる音がした。低く、長く、途切れなく。
長い沈黙があった。
アナトが視線を火に落として、言った。
「……私も、取り戻さなければならないものがある」
バアルのことだ。
冥界に落ちた兄。嵐の神。アナトがこの旅に出た理由。アシュタルと契約を結んだ理由。すべての始まり。
だが——その言葉の響きが、以前とは違っていた。
旅の初めの頃、アナトが兄のことを語る時は「義務」の匂いがした。「取り戻さなければならない」——それは使命であり、責任であり、千年の戦女神が自分に課した命令だった。揺るがない意志というよりも、揺るぐことを自分に許さない意志だった。
今の声には、それだけではないものが混じっていた。何と呼べばいいのか分からない。本音、とでも言うのだろうか。鎧を一枚脱いだような、素の声。「取り戻さなければならない」が義務ではなく、願いとして響いた。
アシュタルは黙って頷いた。
同じものを取り戻そうとしている二人だ。アシュタルは家族を。アナトは兄を。失ったものを取り戻すために砂漠を越え、冥界を目指している。理由は違う。立場は違う。人間と神だ。だが——歩く方向は同じだ。
焚き火に薪を足した。炎が大きくなり、光の輪が広がった。
アナトの「怖くないのか」という問い。
それ自体が、変化の証拠だった。以前のアナトなら、人間が怖がるかどうかに興味はなかった。道具が壊れるかどうかは気にしても、道具が怖がるかどうかは気にしない。壊れなければいい。動けばいい。感情など、計算に入らない。
今、この女神は——相手の恐怖を、気にかけている。
本人は、たぶん無自覚だ。「冥界は危険だ」という事実の確認のつもりで訊いたのだろう。だが言葉の奥にあるものは、事実の確認ではなかった。もっと柔らかいものだ。名前をつければ壊れそうな、何か。
砂漠の夜は静かだった。焚き火が爆ぜる音と、二人の呼吸だけが聞こえていた。
星が出ていた。商隊の焚き火の光がない分、星が近い。手を伸ばせば掴めそうなほど、低く、明るく、砂漠の空を埋め尽くしている。あの夜——砂丘の上で信念を語った夜——と同じ星が光っている。
二人の影が、岩壁の上でゆっくりと揺れていた。




