枯れ谷の入口
砂の色が変わった。
交易都市を出て三日目の朝だった。日の出と共に歩き始め、二刻ほど経った頃だろうか。足元の砂が——違っていた。
薄い金色だった砂が、灰色を帯びている。最初はうっすらと、まるで曇り空の影が落ちているだけのように見えた。空を見上げた。晴れている。雲はない。影ではない。砂そのものの色が変わっているのだ。
歩を進めるごとに灰色は濃くなり、やがて黒みがかった色に変わっていった。砂ではない。焼けた土のような質感。踏むと、砂のように流れず、硬く乾いた音がした。靴底に伝わる感触が変わった。砂漠を歩く時の、足が沈む感覚がない。硬い。冷たい。生きていない地面だった。
植物が消えた。
砂漠にも、わずかな灌木や枯れ草は生えている。風に揺れる茎、砂に半分埋もれた根、乾いた棘。旅の間、ずっとそういうものを見てきた。砂漠は死の世界ではない。過酷だが、生きているものがある。それが——ない。地面に影すらない。生命がそこにあった痕跡すらない。根の跡もない。虫の巣穴もない。何一つ、生きたことがない地面だ。
虫の声が消えた。
砂漠の夜には虫の声がある。微かだが、確かに聞こえる。生きているものがそこにいる証拠。昨夜の夜営ではまだ聞こえていた。今朝——聞こえない。
風の音が減った。
風は吹いている。だが音が小さい。砂を巻き上げる風の唸りが、ここでは遠くから聞こえるように響く。音を吸い込む何かが、この土地にある。声を出せば、声も吸い込まれるのだろうか。
生命の気配が、消えていく。
アシュタルの足が無意識に遅くなっていた。
頭では理解している。冥界の入口に近づいているのだ。酒場で聞いた噂、アナトの解説、帳面に書き込んだ情報——すべてがこの場所を指していた。「南の枯れ谷」。草木が一切生えない場所。行った者が戻らない場所。
理解しているのと、体がそれを受け入れるのとは別の話だった。頭は「予想通りだ」と言っている。足は「ここから先は違う」と言っている。
足を止めた。
屈んで、地面に手を触れた。
冷たかった。
砂漠だ。日中の太陽に焼かれているはずの地面が、冷たい。指先に伝わるのは石の冷たさではなく、もっと深い冷気だった。地面の下から、何かが滲み出している。冷たさというよりも——不在だ。熱があるべき場所に、熱がない。命があるべき場所に、命がない。
帳面を取り出した。記録しようとした。筆を走らせかけて——止めた。
何を書けばいいのか分からなかった。
「地面の温度——異常」。そう書いても意味がない。数字で測れない冷たさだ。商人の帳面に記録する術がない。温度ではなく、もっと別の何かが冷たい。空気が冷たいのではなく、この場所が持つ意味そのものが、冷たい。帳面を握る手が、弟の手紙を思い出した。触覚を失いかけた手で書かれた字。今、自分の手はこの地面の冷たさを感じている。感じられることの有り難さを、ここで初めて知った。
右の手首が疼いた。
布で巻いた手首の内側。「捧げもの」の印がある場所。銀色の円環紋様が、微かに熱を持っていた。疼きと言うには弱い。虫に刺されたかと思う程度の、ごく微かな反応。だが確かに、何かに反応している。
モトの領域。死の神の力が地上に滲み出している場所。印がそれを感じ取っている。バアルの近くでは光ると聞いた。モトの近くでは——疼く。死の力に呼応している。
立ち上がった。
前方に、地形の変化が見えた。
地面が裂けている。左右に広がる台地の間に、深い谷が刻まれていた。谷は真っ直ぐ南に伸びている。幅はそれほど広くない。人が三人並んで歩ける程度だ。両側の崖が切り立ち、谷底は暗い。
枯れ谷だ。
アナトが足を止めた。
目を閉じた。赤い髪が風に揺れている。両腕の戦の紋様が微かに明滅した——何かを感じ取っているのだ。千年の戦女神の感覚が、目に見えない力の流れを読んでいる。人間の五感では捉えられないものを、神の感覚が捉えている。
やがて目を開いた。金色の瞳が、谷の奥を見据えた。
「ここからは冥界の気配がする」
声が低かった。いつもの高圧的な口調ではない。事実を述べる、静かな声。
「モトの領域の端だ」
その声にかすかな緊張があった。アシュタルは聞き逃さなかった。千年の戦女神。数え切れない戦場を踏み、神すら斬ってきた最強の戦士。かつて単身で冥界に乗り込もうとした女神。その声に——緊張がある。
冥界の入口は、そういう場所なのだ。神をも緊張させる場所。
谷の入口に立った。
見下ろした。谷は思ったよりも深い。両側の崖は黒い岩で、刃物で切ったように鋭い。岩肌に模様がある。自然にできたものか、何かが刻んだものか——判別がつかない。谷底は暗く、奥に行くほど闇が濃くなっている。谷の向こう側は——見えない。闇に沈んでいる。
風が谷の中から吹いてきた。
冷たかった。乾いていた。そして——匂いがあった。何の匂いとも言えない。強いて言えば、雨が降った後の土の匂いに似ている。だが水気はない。乾ききった土の匂い。命が乾いた後に残る匂い。死の匂い、と言えば近いかもしれない。
アシュタルの背筋に冷たいものが走った。
怖い。
素直にそう思った。昨夜の焚き火でアナトに「怖い」と言った。あれは嘘ではなかった。だが——あの時の恐怖と、今の恐怖は質が違う。あの時は想像の恐怖だった。頭の中で組み立てた恐怖。今は、目の前にある恐怖だ。冷たい風が顔に当たっている。死の匂いが鼻腔を満たしている。足元の黒い地面が、ここから先は戻れないと告げている。
帳面を開いた。
酒場で聞いた噂。アナトの解説。書き込んだ情報を読み返す。自分の字を見ると、少し落ち着く。帳面は商人の武器だ。帳面を持っている限り、商人は商人でいられる。
七つの門。冥界の入口に通じる古い道。門を一つ潜るたびに、何かを差し出さなければならない。代価のある通過儀礼。
「七つの門」
声に出した。自分の声を聞くためだった。この沈黙の中で、人間の声がどう響くか確かめたかった。
声は——吸い込まれた。谷の闇に吸い込まれるように、すぐに消えた。反響もない。この谷は音を飲む。人間の声ごと飲み込む。
もう一度、帳面を見た。筆を握った。手は震えていない。確認した。震えていない。膝は——少し笑っている。だが手は大丈夫だ。帳面を持てている。字が書ける。商人は帳面が持てれば戦える。
「代価のある通過儀礼」
帳面に書き込んだ。自分の字で。震えていない字で。
「——つまり、七回の商談です」
言った瞬間、自分でも馬鹿なことを言っていると分かった。冥界の門を「商談」と呼ぶ商人が、この世に何人いるだろう。おそらく一人もいない。前例のない取引だ。相場もない。仲介人もいない。取引の相手は死の神の領域。失敗すれば——命で払う。
だが、商人はそういう取引をするものだ。前例がなくても、相場がなくても。値が分からない商品に値をつける。それが商人の仕事だ。
アナトが隣で鼻を鳴らした。
「……お前は、どこまでも商人だな」
その声に棘はなかった。
呆れでもなかった。あの夜、星の下で聞いた「変わった虫だ」と同じ声だった。言葉の表面と、声の奥にあるものが違う。蔑みの形をした、別の何か。呆れた風でいて、その声にはどこか——安心のようなものが混じっていた。この人間は冥界の入口に立っても変わらない。帳面を開いて「商談」だと言い張る。その一貫性に、何かを感じているのかもしれない。
アシュタルは帳面を閉じた。
「商人の息子ですから」
懐の手紙が脈打っている。弟の字。触覚を失いかけた手で書かれた、震える字。「待ってるから」。
待たせない。
アシュタルは一歩、踏み出した。黒い地面が靴底を受け止めた。冷たい風が正面から吹きつけた。死の匂いが濃くなった。
アナトが隣を歩いた。何も言わなかった。双剣の柄に手を添え、金色の瞳で谷の奥を見据えていた。
二人は枯れ谷に入った。
砂漠が背中の後ろに遠ざかっていく。太陽の光が谷の壁に遮られ、薄暗くなっていく。一歩ごとに空気が冷たくなる。一歩ごとに音が遠くなる。一歩ごとに、生きている世界から離れていく。




