商隊の分岐
商隊の出発準備は、朝靄の中で進んでいた。
交易都市の東門前。まだ陽が低く、門の影が石畳の上に長く伸びている。駱駝が鼻を鳴らし、荷運びの男たちが荷を括り直している。傭兵たちは剣の帯を締め、盗賊——今は斥候と呼ぶべきだろう——たちが砂漠の空気を嗅いでいた。商隊が動き出す前の緊張と活気が、朝の冷気の中に漂っている。
商隊は東へ向かう。東の交易路を辿り、内陸の都市へ。それがハダドの本来の行程だ。
アシュタルとアナトは、南へ。
ここが分岐点だった。砂漠の交差路で、道が分かれる。商隊の喧騒と人いきれの中から、砂漠の静寂の中へ。日常から、日常の外へ。人の世から、人ならざる者の領域へ。
ハダドの天幕を訪ねた。
天幕の中は片付けの途中だった。折り畳まれた敷布、紐で縛られた荷、砂を払った器具類。旅慣れた男の手際で、すべてが整然と積まれている。商人の荷物は、その商人の性格を表す。ハダドの荷は無駄がなく、手入れが行き届いていた。
ハダドが振り返った。顎髭に白いものが混じった顔に、朝の光が当たっている。
「出発か。——東か」
「いえ」
アシュタルは微笑んだ。いつもの、商談の入り口に見せる笑顔。だが今日のそれは、少し違う色をしていた。
「南です」
ハダドの顔が曇った。手に持っていた荷紐を下ろし、アシュタルをまっすぐに見た。商隊の長として何十年も人を見てきた目が、アシュタルの顔を読もうとしている。
「南? 枯れ谷の方角か。あそこには何もない——いや、何もないどころか、行った者が戻らないと聞いた」
「商談の相手がそこにいるんです」
ハダドが一瞬、言葉を失った。
南の枯れ谷。砂漠の旅人なら誰でも知っている禁域だ。草木が一切生えない黒い谷。入った者が戻らない場所。「行くな」とすら言わない。「行くことを考えるな」と言われる場所。そこに「商談の相手がいる」と微笑む十八歳の商人を、ハダドはどう見ただろう。
苦笑が浮かんだ。深い皺が口元に刻まれた。
「正気か、タグムの息子」
「正気です。正気でなければ、ここまで来ていません」
それは本当だった。砂漠を越え、盗賊と交渉し、砂嵐を生き延びてここにいる。狂人にはできない。正気の人間が、正気のまま、狂ったことをしようとしている。
ハダドが腰を下ろした。天幕の敷布の端に座り、アシュタルを見上げた。
その目は商隊の長の目ではなかった。年長の商人が若い商人を見る目だった。砂漠を共に越え、砂嵐を生き延び、盗賊と傭兵の間に立って焚き火を囲んだ——その十日余りの旅が、この目を作った。息子を見る父の目に、少し似ていた。
「止めても無駄か」
「無駄です」
「……お前は優秀な商人だ。砂漠を渡り、盗賊を味方に変え、商隊をここまで導いた。こんなところで死ぬ必要はない」
アシュタルは立ったまま、ハダドの目を見た。
「死にに行くんじゃありません。取り戻しに行くんです」
間を置いた。言葉を選んだわけではない。次の言葉が、胸の奥から上がってくるのを待った。
「——家族を」
ハダドが黙った。
商人は家族を知っている。家業を知っている。跡取り息子が何を背負って旅に出るのか、その重さを知っている。ベン=シャハル商会の名を聞いた時、ハダドは頷いた。港町の中堅商会。実直な商売で知られる一族。その跡取りが、一族を救うために砂漠を越え、その先の禁域に向かおうとしている。
商人同士だからこそ、言葉の裏にあるものが見える。「取り戻しに行く」の一言に、どれだけの覚悟が詰まっているか。
「タグムの息子は」
ハダドが溜息をついた。重い息だった。長い旅を共にした者を送り出す息だ。
「タグムと同じくらい頑固だな」
「父を知っているんですか」
「名前だけだ。だが名前だけで分かる。頑固な商人の息子は、頑固な商人になる。うちの倅もそうだ」
笑った。二人とも笑った。天幕の中に短い笑い声が響いた。
ハダドが立ち上がった。大きな手がアシュタルの肩を掴んだ。ずしりと重い。砂漠を何十年も歩いた男の手の重さだった。砂嵐に耐え、駱駝の手綱を握り、商品を担いできた手だ。
「行くなら——行け。商人は止めても動く生き物だ」
「ええ」
「だが——」
肩を掴む手に力がこもった。
「必ず帰れ。砂漠は行きと帰りで一つの旅だ。帰らない旅は、旅ではない」
アシュタルは頷いた。声を出すと、揺れそうだった。だから頷いた。
天幕を出た。
商隊の集合地点に戻ると、出発の準備が整いつつあった。駱駝が列をなし、傭兵たちが隊列を組んでいる。朝靄が薄れ、砂漠の地平線が金色に光り始めていた。
盗賊たちがいた。ザバルが仲間と話している。アシュタルに気づくと、顎をしゃくった。
「南に行くんだってな」
噂は早い。砂漠では風と同じ速さで話が広まる。
「ええ」
「正気か」
「今日二回目です、その質問」
ザバルが鼻で笑った。十年砂漠を歩いた男の笑い方だ。
「まあいい。生きて帰ったら酒を奢れ。砂漠で飲む酒の味を教えてやったのは俺だ」
「あの不味い葡萄酒ですか」
「不味いからこそ忘れないんだよ」
それもそうだ、とアシュタルは思った。美味い酒は記憶に残らない。不味い酒は——一緒に飲んだ相手の顔と一緒に残る。
傭兵たちが手を上げた。荷運びの男たちが声をかけた。短い旅だった。砂漠を共に越えただけの、短い縁だった。だが——砂嵐の夜を共に生き延びた者たちの間には、言葉にならない何かがあった。同じ火で暖を取り、同じ風に吹かれた記憶。それは契約書には書けない。
盗賊だった者たちも、手を振った。つい十日ほど前まで刃を向けていた者たちが、今は手を振っている。酒と干し肉と、焚き火を囲んだ夜が、刃の記憶を薄れさせた。完全に消えたわけではない。だが——上書きされた。人間の記憶は、新しい経験で塗り替わる。商人はそれを知っている。だから酒と飯を共にする。取引の前に、まず食卓を囲む。食べて、飲んで、笑って——それから商談を始める。それが商人の流儀だ。
商隊が動き出した。東へ。駱駝の列が砂漠の中に伸びていく。
アシュタルは南を向いた。
アナトが隣にいた。双剣を腰に帯び、赤い髪を朝日に光らせている。商隊の別れの風景を、金色の瞳で無言のまま見つめていた。
何を思っているのだろう。人間たちの別れを、神はどう見るのだろう。十日ほどの旅で生まれた絆を、千年を生きた神はどう評するのだろう。
アシュタルは訊かなかった。訊かなくても、アナトがそこにいた。それで充分だった。
「行きましょう」
南へ。砂漠の向こうの、枯れ谷へ。
商隊の列が東へ遠ざかっていく。駱駝の背に揺れる荷物が小さくなっていく。砂塵が列を覆い、やがて地平線に溶けた。ハダドの姿が最後まで見えていた。大きな背中だった。
ここから先は、仲間のいない旅だ。




