第二の手紙
手紙は二通目だった。
交易都市に着いて二日目の昼だった。宿の一階にある食堂の隅、木の卓に地図を広げ、南への経路を帳面に書き写していた。窓から入る日差しが地図の上に四角い光を落としている。砂漠の交易路は複雑だ。東西の幹線は確かだが、南へ向かう道は途中で途切れている。帳面に書き込む筆が止まる。途切れた先——枯れ谷への道は、地図に載っていない。
宿の女主人が階段を上がってきた。小太りの中年女で、前掛けに粉がついている。
「あんた宛だよ。ウガルからの商船便で来たらしい。シャリムって男の伝手で、港を三つ渡ってきたそうだ」
封書を渡された。表書きには「兄ちゃんへ」と書いてあった。
指が止まった。
前の手紙を思い出した。震えた字。声が出なくなったと書かれた手紙。括弧の中に閉じ込められた「味はしないけど」。あの手紙は今も懐にある。帳面と一緒に、心臓の近くに。一通目の手紙を受け取ったのは出発前夜の港町の宿だった。月明かりの中で読んだ。あの時は——手が震えた。帳面を持つ指が震えた。
封書を持つ手に力が入った。開けるのが怖い。前の手紙を開けた夜の月明かりを覚えている。燭台の炎が揺れて、弟の字が震えていた。今度は——何が書いてあるのだろう。何が失われたのだろう。
何が書いてあっても、読まなければならない。商人は封書を未開封のまま残さない。中身が吉報でも凶報でも、開けて確認する。それが商売の基本だ。
封を切った。
手紙を広げた。
最初に目に入ったのは、字の形だった。
前の手紙よりもさらに乱れていた。一文字ごとの太さが違う。細い線と太い線が交互に現れている。ある文字は筆が滑って線が伸び、ある文字は力が入りすぎて紙に穴が開きかけている。筆圧の制御ができていない。指先がどれだけの力で筆を紙に押しつけているのか、分からなくなっている——そういう字だった。
触覚が、鈍っている。
前回の「震える字」は前兆だったのだ。筆を持つ手の感覚が薄れ始めていた。あの時はまだ「震える」程度だった。今は——感覚そのものが消えかけている。指が筆に触れている実感がない。だから力の加減ができない。
読んだ。
——兄ちゃん、元気?
同じ書き出しだった。弟は二通とも同じ書き出しで手紙を始める。十四歳の少年が、精一杯の日常を装って書く最初の一行。この書き出しを読むたびに胸が詰まるのは、そこに弟の意地が透けて見えるからだ。「元気?」と聞く側が、元気であるはずがないのに。
——僕は元気だよ。最近、手が変な感じがする。筆を持ってる感覚がぼやけてきた。うまく説明できないんだけど、手袋をはめたまま字を書いてるみたいな感じ。でも書けてるから大丈夫。
手袋をはめたまま。子供らしい素朴な比喩だった。だがその比喩が指し示すものは素朴ではなかった。触覚の喪失。味覚を失い、声を失い、今度は手の感覚が消えていく。世界との接点が一つずつ断たれていく。「でも書けてるから大丈夫」——大丈夫ではない。この字を見れば分かる。書けてはいる。だが「書けている」のが、いつまで続くのか。
——シャリム兄ちゃんが相変わらず張り切ってる。帳簿がますます読めなくなったって母ちゃんが怒ってた。でもシャリム兄ちゃん、帳簿のことになると急に真面目な顔になるから面白い。
シャリムは健在だ。商会は回っている。弟は兄が心配しないように、日常の報告を挟んでくる。シャリムの帳簿の癖まで書く。十四歳の気遣いが、胸に刺さった。明るい話題を入れることで、手紙全体が深刻にならないようにしている。弟は子供だが、馬鹿ではない。
次の行で、目が止まった。
——父ちゃんも最近、声が掠れてきたって。母ちゃんが心配してる。父ちゃんは大丈夫だって言ってるけど。
父にも。
弟だけではない。父にも症状が広がっている。声の掠れ——段階三の初期症状だ。弟の進行では不眠の後に来た症状。弟は今、段階四の触覚喪失に差しかかっている。父は段階三に入った。母にも、いずれ——。
「父ちゃんは大丈夫だって言ってるけど」。父も同じだ。大丈夫だと言う。大丈夫ではないのに。この一族は揃って強がりだ。商人の家に生まれた人間は、帳面の外に感情を書かない。
帳面を取り出した。
呪いの進行表を開く。旅の出発時から記録し続けている表だ。前の手紙の時点で、弟の進行は段階三の中期だった。あれから約二十日。弟は段階四の初期に入っている。父は段階三の初期。進行速度は——加速している。
指が数字を追う。弟の段階進行の速度。父への波及のタイミング。家族全体の残り時間。
約百二日。
前回の計算では百二十日だった。十八日、縮んだ。いや——進行が加速しているなら、実際にはもっと短いかもしれない。等速で進む保証はどこにもない。加速度が一定だと仮定しても、加速度自体が変動する可能性がある。変数の中に変数がある。
帳面の上で数字が踊った。百二日。九十日。八十日。最悪の想定を重ねるたびに数字が減っていく。どこまで減るのか。どこで止まるのか。止まるのか。
数字が答えを出さない。
不明が多すぎる。進行速度の変動幅、家族ごとの個体差、呪いの性質そのものの不確定要素。変数が多すぎて、商人の計算では追いつかない。帳面に書ける数字には限界がある。この呪いは、帳面の外にある。
手紙の最後を読んだ。
——早く帰ってきてね。前の手紙にも書いたけど、もう一回書く。待ってるから。
「もう一回書く」。弟は、前の手紙で伝えきれなかったと思ったのだ。あるいは——兄がちゃんと読んだか、確かめたかったのかもしれない。だからもう一度書いた。同じ言葉を。待ってるから、と。
字は潰れかけていた。筆を握る力加減が分からないから、最後の方になるほど字が崩れる。「から」の字がほとんど読めない。だが読めた。読めなくても、読めた。弟の字だ。何百回と見てきた字だ。崩れても、潰れても、分かる。
それでも最後まで書いた。感覚が消えかけている手で、兄への手紙を最後まで書いた。
帳面を閉じた。
目を閉じた。
深く、息を吐いた。
計算は追いつかない。変数が多すぎる。不明が多すぎる。商人の頭では処理しきれない速度で、家族が壊れていく。弟の手。父の声。次は誰の、何が奪われるのか。
目を開けた。
その目に、揺らぎはなかった。
立ち上がった。手紙を丁寧に折り畳み、懐にしまった。一通目の手紙の隣に。二通の手紙が心臓の傍に並んだ。
隣の部屋の扉を叩いた。
アナトが出てきた。金色の瞳がアシュタルを見た。何かを感じ取ったのだろう——その目がわずかに細くなった。アシュタルの顔に、何が見えたのだろうか。泣いてはいない。取り乱してもいない。だが何かが——いつもと違っていたのだろう。
「冥界に行きます。今すぐ」
計算ではなかった。損得でもなかった。商人の言葉ではなかった。
家族を失いたくない人間の、ただそれだけの言葉だった。
アナトは何も言わなかった。一瞬だけ、アシュタルの顔を見つめた。金色の瞳に何が映っているのか——読めなかった。それから——小さく頷いた。
弟の手紙が懐で脈打っている。触覚を失いかけている手で書かれた字が、心臓の隣で震えている。
残り百二日。いや、もっと短いかもしれない。
だが計算している暇はもうない。砂漠の先に、答えがある。




