冥界の噂
翌日、アシュタルは朝から酒場にいた。
交易都市の酒場は昼間から客がいる。砂漠を旅する者にとって、酒場は水場と同じだ。喉を潤し、情報を得て、次の旅に備える。朝の酒場には長旅の者が多い。夜の酒場より口が軽い。夜は酒で舌が滑るが、朝は疲れで舌が滑る。どちらが使えるかは場合による。今日は朝を選んだ。
安い葡萄酒を注文し、隅の席に座った。飲むためではない。酒を前に置いておけば、店主が追い出さない。場所代だ。
隣の席に座った傭兵くずれの男と話した。南の砂漠の道について。男は枯れ谷の近くまで行ったことがあるという。「水は三日分では足りない。五日は持て。途中に井戸は一つもない」。有益な情報だ。銀貨一枚で買えた。安い。
その次は東方から来た隊商の経理係。枯れ谷の位置について。「この都市から真南に行くな。南南西に進め。真南には岩場があって迂回に一日かかる」。帳面に地図を描いた。
断片が集まっていく。帳面のページが埋まっていく。商人の情報収集は砂を一粒ずつ集めるような作業だ。一粒では何も分からない。百粒集まると地形が見える。千粒集まると道が見える。
昼過ぎには、別の酒場に移った。こちらは旅人向けではなく、地元の住人が通う店だ。土壁の小さな店で、天井が低い。窓から入る日差しが砂埃を照らしている。常連客は土地の古い話を知っている。旅人が持たない情報を持っている。
白髪の老婆が葡萄酒の杯を傾けていた。目が鋭い。この酒場の主のような存在感がある。アシュタルはもう一杯を注文して差し出した。
「この土地に長いんですか」
「生まれてからずっとさ。六十年」
「南の枯れ谷の話を知っていますか」
老婆の目が細くなった。杯を置いた。
「知っているよ。——あんた、行く気かい」
「興味があるだけです」
「興味で行く場所じゃないよ。門があるんだ。七つの門が。一つくぐるたびに何か取られるって話さ」
「何を取られる?」
「さあね。行った者は戻ってこないから、誰にも分からないよ」
老婆が杯を手に取り、一口飲んだ。
「あたしの爺さんがね、若い頃に枯れ谷の入口まで行ったことがあるんだ。門は見えたが、くぐる気にはならなかったと言っていたよ。『あれは人間が通る道じゃない。あれは神の道だ』ってね」
神の道。帳面に書き足した。門を一つくぐるたびに、何かを取られる。そして——神の道。
「ありがとうございます。もう一杯いかがですか」
「もらうよ。——あんた、行くんだろう? 目を見れば分かるさ。止めはしないよ。止めたところで行く目をしてる」
三杯目の葡萄酒を注文した。老婆の勘は鋭い。六十年、人を見てきた目は誤魔化せない。
夕方、宿に戻った。
アナトが窓際に座っていた。砂避けの布を外し、赤い髪が夕日に照らされている。宿の部屋は狭い。土壁の小さな部屋に寝台が二つ。窓は一つ。アナトはいつも窓際を選ぶ。外を見張れる場所。戦士の習性だ。
アシュタルは寝台に座り、帳面を開いた。
「情報が集まりました」
アナトが横を向いた。金色の瞳がアシュタルの帳面を見た。聞いている。
「南の枯れ谷。この都市から南南西に五日ほどの場所に、草木が一切生えない谷がある。谷の奥に、石の門が七つ並んでいる。——行った者は戻らない」
帳面の記述を読み上げた。老旅人の証言、傭兵の噂話、老婆の話。複数の情報源から同じ内容が出ている。嘘や誇張の可能性はあるが、核心部分は一致していた。一つの嘘は疑える。三つの一致は信じていい。商人の経験則だ。
アナトが頷いた。ゆっくりと。
「七つの門——冥界の入口に通じる古い道だ」
声が低かった。いつもの命令口調ではない。知識を伝える声だ。砂嵐の夜以来、アナトの声にはわずかな変化がある。棘が——少しだけ、丸くなった。
「モトの領域に至る通過儀礼の場。門を一つ潜るたびに、何かを差し出さなければならない」
「何を?」
「通る者によって異なる。だが必ず——その者にとって大切なものだ。力を持つ者は力を。知恵を持つ者は知恵を。愛する者がいる者は——」
言葉が途切れた。アナトがアシュタルから視線を外した。窓の外を見た。
アシュタルはペンを走らせた。門の数は七つ。通過のたびに代価を支払う。代価は「大切なもの」。
「つまり——代価のある門ということですか」
アナトがアシュタルを見た。金色の瞳が鋭い。
「代価があるなら、交渉できるということです」
「簡単に考えるな」
アナトの声が硬くなった。
「門の代価は通常の取引ではない。命に関わるものを要求される。銀貨や品物で済む話ではない」
ペンが止まった。
命に関わるもの。
一瞬、ウガルの港が頭をよぎった。父の声。母の笑顔。妹の手を引いて市場を歩いた日曜日の朝。帳面に挟んだ妹の描いた絵。あの絵は今も帳面の奥に入っている。下手な人の絵と、上手な犬の絵。妹は人より犬を上手に描く。
命に関わるもの。
ペンを持ち直した。
帳面に書いた。そして——声に出した。書きながら。
「命に関わるもの。つまり——値が高いだけで、値はあるということです」
アナトが目を細めた。
「……お前は、何でも取引に置き換えるのだな」
「商人ですから」
軽い声で答えた。いつもの調子で。だが——ペンを持つ手が、ほんの少し力を込めていた。爪が白くなるほどではない。だが震えを止めるには十分な力だ。
値がある。値があるなら、交渉できる。交渉できるなら、道は開ける。それが商人の論理だ。
だがそれは——恐怖を飲み込むための論理でもあった。
命に関わるものを要求される門を、七つくぐる。帰ってきた者はいない。それでも行く。
行く理由は決まっている。
帳面を閉じた。
「場所は分かりました。道順も大体。必要な準備も見えてきた。水と食料は五日分。商隊とはここで別れることになります」
「ハダドには何と言う」
「取引先が南にある、と。嘘ではありません」
アナトが鼻を鳴らした。嘘ではないが、真実でもない。商人の答えだ。だが追及はしなかった。このやり取りに——どこか、慣れた空気があった。旅の最初にはなかった空気。互いの言葉の裏を、訊かずとも読める間柄。
窓の外で夕日が沈んでいく。交易都市の白い壁が橙色に染まり、やがて紫に変わっていく。市場の喧騒が遠くなり、代わりに虫の声が聞こえ始めた。
アシュタルは寝台に横になった。天井を見上げた。土壁の天井に亀裂が走っている。蜘蛛が一匹、糸を張っていた。獲物を待つ蜘蛛。商人と似ている。網を張って、待つ。
「行った者は戻らない」
老旅人の声が頭の中で繰り返された。
「門の代価は命に関わるもの」
アナトの声が重なった。
帳面を胸の上に置いた。革の表紙が体温を吸って温かくなった。この帳面には、ウガルを出てからのすべてが書いてある。数字と事実と、時々——数字にならない何かが。六日目の夜に書いた「星がきれいだった」の一行が、他のどの数字よりも重い。
目を閉じた。
恐怖はあった。膝が震えないのは、横になっているからだ。立っていたら震えていた。
だが——答えは決まっている。
帳面を開いた。最後のページに、小さく書いた。
行く。
一族が待っている。
帳面を閉じた。目を閉じた。
明日から準備を始める。商隊との別れの段取り。水と食料の調達。南への道順の最終確認。商人は準備を怠らない。死地に向かうとしても、帳簿はつける。
窓際でアナトが外を見ていた。金色の瞳に、交易都市の夜の灯りが映っていた。何を考えているのかは分からない。
だが——ここにいる。
一人ではない。それだけが、砂漠の夜より暗い恐怖の中で、かすかに光っていた。




