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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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砂漠の宝石

 十日目の昼、地平線に緑が見えた。


 最初は蜃気楼しんきろうだと思った。砂漠を歩いていると、地平線に水や緑が見えることがある。近づけば消える幻だ。商隊の荷運びの男が「水だ」と叫んで走り出し、ザバルに首根っこを掴まれたのは三日前のことだった。「蜃気楼に走る奴は砂漠で最初に死ぬ」と言われた男は、今も顔が赤い。


 だが今回は消えなかった。


 歩くたびに緑が大きくなった。椰子やしの木の輪郭が砂の向こうに浮かび上がり、白い壁の建物が日差しを弾いて光っている。陽炎かげろうの向こうに、確かな形がある。


「あれは本物か」


 ハダドが訊いた。眉をひそめている。傭兵は疑い深い。疑い深くない傭兵は長生きしない。


「本物だ」


 ザバルが答えた。声に確信があった。


「砂漠の宝石。交易路の交差点にある中継都市だ。東西南北の商人が集まる。水がある。飯がある。酒がある」


 商隊から歓声が上がった。荷運びの男たちが肩を叩き合い、傭兵たちが水袋を振って残量を確認した。足取りが軽くなった。十日間の砂漠行軍。水の配給。砂の食事。灼熱と寒冷の繰り返し。それがようやく終わる。


 アシュタルの足も軽かった。嘘はつかない。体は正直だ。


 だが——目は別のものを見ていた。椰子の木でも白い壁でもなく、その先にあるはずのものを。


 情報。


 この都市には、砂漠の四方から人と物と噂が集まる。噂の中に——冥界の入口への手がかりがあるかもしれない。


 交易都市の門は、砂岩を積んだ素朴なものだった。門番が二人。槍を持っているが、眠そうな目だ。平和な都市だ。通行料を払えば誰でも入れる。銅貨五枚。安い。この都市は通行料より市場の売り上げで成り立っている。商人の目にはすぐ分かる。


 門の内側は別世界だった。


 色が溢れていた。


 砂漠の茶色と空の青しかなかった世界に、突然すべての色が戻ってきた。市場の天幕は赤、黄、青の布で飾られ、香辛料の山が金色と朱色と深緑に光り、果物の露店にはザクロと無花果いちじくと干し葡萄が積み上げられていた。


 匂い。


 肉の焼ける匂い、香辛料の刺激、花の甘さ、革の匂い、汗の匂い、ロバの糞の匂い——十日間、砂と風しか嗅がなかった鼻が、一気に世界を取り戻した。胃が鳴った。体が食べ物を求めている。干し肉と砂の味しか知らなかった舌が、目の前の色に反応している。


 音。


 商人の呼び声、値切りの怒鳴り合い、子どもの笑い声、驢馬ろばの鳴き声、金属を打つ職人の槌音つちおと。砂漠の沈黙が嘘のように、人間の営みの騒音が耳を満たした。


 アシュタルの目が輝いた。


 商人の目だ。値踏みの目ではない。もっと純粋な——市場という場所そのものへの愛着。生まれて初めて父に連れられた港の市場を思い出した。色と匂いと音に圧倒されて、父の手を握ったまま口を開けていた五歳のアシュタル。今は握る手がない。代わりに帳面がある。


「ここは情報の宝庫です」


 独り言のように言った。隣にいたのはアナトだった。砂避けの布で顔を覆い、赤い髪を隠している。人間に紛れる装い。市場の喧騒の中では、長身の女旅人にしか見えない。砂嵐から三日が経ち、力はある程度戻ったようだが、まだ本調子ではない。歩き方が少しだけ慎重だ。


 アナトは答えなかった。人混みを警戒するように、金色の瞳を布の隙間から光らせていた。神にとって人間の市場は——何に見えるのだろう。虫の巣か。蟻の行列か。


 商隊は交易都市の宿営地に入った。ハダドが宿の手配を仕切り、ザバルの一行はなじみの宿があるらしく別行動になった。ここで補給と休息を取り、後半の行程に備える。


 アシュタルは荷を降ろす間も惜しんで市場に出た。


 情報収集。商人の本業だ。


 最初に向かったのは香辛料商の一角だった。香辛料商は各地の情報に精通している。品物が遠方から来る以上、産地の情勢は商売に直結する。相場を知らない香辛料商は潰れる。つまり残っている香辛料商は、皆情報通だ。


 東方の胡椒こしょうを商う老商人に声をかけた。少量の銀貨と愛想のいい笑顔で、しばらく雑談を交わした。相場の話。天候の話。交易路の安全の話。胡椒の値が上がっているのは東方の港で嵐があったからだとか、南方の香木が品薄なのは盗賊が増えたからだとか。砂漠の四方の情勢が、一杯の茶を飲む間に見えてくる。


 そしてさりげなく——南の話を振った。


「南の砂漠の向こうには何があるんです?」


 老商人が首を振った。


「何もない。枯れ地だ。商売にならん」


「通る人は?」


「いない。行っても戻ってこないと言われている。——なぜ訊く?」


「商人の癖です。行けない場所ほど気になる」


 老商人が笑った。「若い商人はそう言う。年を取れば分かる。行けない場所には行かない理由がある」


 布商、金属細工師、傭兵の仲介屋——次々と声をかけた。酒を奢り、世間話に混ざり、笑い話の合間に本題を滑り込ませる。商人の情報収集は、剣を抜くより地味で、剣を抜くより確実だ。


 断片が集まった。


「南の枯れ谷」——砂漠を越えたさらに南に、草木が一切生えない谷があるという。交易品は何もない。水もない。行く理由がない。


「行った者は戻らない」——何人かの旅人がその谷に向かったという噂があるが、誰一人戻ってきていない。理由は分からない。迷ったのか、死んだのか。


 そして——市場の片隅で、ある言葉に当たった。


 年老いた旅人が酒場の前に座っていた。日焼けした顔に深い皺。片目が白く濁っている。砂漠を何十年も旅してきた顔だ。体は痩せ、骨ばった手が杖を握っている。


 アシュタルは隣に座り、酒を差し出した。老旅人は黙って受け取り、一口飲んだ。


「南に行ったことはありますか」


「あるとも。若い頃に一度だけ」


「何がありました?」


 老旅人が白い目でアシュタルを見た。見えているのか見えていないのか分からない目で。だがその目の奥に——恐怖の残滓ざんしがあった。何十年も前の恐怖が、まだ消えていない。


「何もなかった。ただ——」


 言葉を切った。酒をもう一口飲んだ。


「谷の奥に、門があった」


 アシュタルの指が帳面のペンを握り締めた。


「門?」


「石の門だ。古い。砂に半分埋まっていた。人間が作ったものじゃなかった。——ただ、一つじゃなかった」


「いくつ?」


「七つ」


 七つの門。


 ペンが止まった。心臓が速くなった。帳面に書こうとして、指が震えた。


「あの先には何もないよ。行った者は戻らない。——わしが戻れたのは、門をくぐらなかったからだ」


 老旅人が酒を飲み干した。空になった杯を見つめ、ぽつりと言った。


「若いの。南に行くなら——やめておけ。あそこは人間が行く場所じゃない」


 アシュタルは礼を言い、銀貨を一枚置いて立ち上がった。


 帳面に書いた。南の枯れ谷。七つの門。行った者は戻らない。


 市場の喧騒の中を歩きながら、帳面を読み返した。断片が繋がり始めている。ハダドが横に来た。いつの間にか。傭兵は足音を消すのがうまい。


「何を嗅ぎ回っている」


「取引先を探しているんです」


「南に、か」


 アシュタルは曖昧に笑った。ハダドは追及しなかった。だが傭兵隊長の目は、アシュタルの帳面に書かれた「南」の文字を見ていた。


 宿に戻る道すがら、市場の色と音が遠くなっていくのを感じた。椰子の木の影が長く伸びる夕方の交易都市は、朝の活気とは違う顔を見せていた。商人たちが店じまいを始め、子どもたちが家に帰り、灯りが一つずつともっていく。


 人間の営みだ。当たり前の営み。当たり前であることの温かさを、砂漠を十日歩いた後では骨身に沁みて感じる。


 その当たり前の向こう側に——七つの門がある。行った者は戻らない場所が。


 足を止めなかった。宿に向かって歩いた。


 明日、もう少し情報を集める。場所の詳細。道順。必要な準備。商人は準備を怠らない。


 帳面を胸にしまった。砂の匂いがした。砂漠の砂ではない。市場の砂だ。人の足で踏み固められた、人間の匂いがする砂。


 七つの門の向こうには、こんな砂はないのだろう。


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