嵐の後
砂嵐が去った後の砂漠は、嘘のように静かだった。
天幕の半分が砂に埋もれていた。荷駄が散乱し、水袋がいくつか破れていた。逃げた駱駝が二頭。荷運びの男が一人、飛ばされた天幕の支柱で額を切った。血が砂に落ちて、黒い点を作っている。
だが——死者はいない。
本来なら、あの規模の砂嵐で死者が出ないはずがなかった。砂漠を十年歩いたザバルが「あれで全員無事なのは奇跡だ」と呟いた。奇跡ではない。神の力だ。だがそのことを口にする者は誰もいなかった。
商隊の者たちは復旧作業に追われた。砂に埋もれた荷を掘り出し、天幕を張り直し、水の残量を確認する。手は動いている。だが時折、視線がアナトの方に向かう。ちらりと見て、すぐに逸らす。目が合うのを避けるように。
アナトは砂丘の端に座っていた。
いつもの凜とした姿勢が崩れていた。背中が丸く、肩で息をしている。双剣は砂の上に投げ出されたまま。腕の戦の紋様は完全に消えていた。赤い髪が砂にまみれて、いつもの鮮やかな色を失っている。砂漠の風が髪を揺らしたが、払う力もないように見えた。
ハダドがアシュタルの横に来た。
腕を組んだまま、アナトの方を見た。低い声で言った。
「……あれは人間じゃないな」
問いではなかった。確認だった。砂嵐を剣で退けた女が人間であるはずがない。傭兵隊長の目は嘘を見逃さない。十年以上、人を雇い、人に雇われ、人を見てきた目だ。
アシュタルは答えなかった。
否定しても意味がない。肯定する権利もない。アナトの正体はアナトのものだ。商人が勝手に売っていい情報ではない。持ち主の許可なく商品を並べる商人は、二度と信用されない。
「……護衛として雇ったのは本当です。それだけは」
ハダドが鼻を鳴らした。納得したわけではないだろう。だがそれ以上は追及しなかった。傭兵は深入りしない。金を払う相手の秘密には首を突っ込まない。それが砂漠の傭兵の流儀だ。
「命は助かった。それだけは礼を言う」
言い残して、復旧作業の指揮に戻った。
商隊の者たちの視線が痛かった。アシュタルにではなく、アナトに向けられた視線が。感謝の視線ではなかった。畏怖だ。恐怖と崇敬が混ざった、人間が人間ではないものに向ける原初的な感情。焚き火を囲み、酒を回し、少しずつ距離を縮めてきたものが——一夜で崩れた。
遠巻きにしている。
砂嵐の前は、アナトは「無口な女戦士」だった。近寄りがたいが、同じ火を囲む仲間だった。今は違う。同じ火を囲めない。距離が生まれた。目に見えない距離が。
それを——あの女神はどう感じているのだろう。
慣れているのか。何千年も、人間との間にこの距離を置いてきたのか。だからこそ人間を「虫」と呼ぶのか。近づけないから、近づかないふりをしているのか。
アシュタルは水袋を手に取った。
自分の分から少し移した。砂漠で水を分けるのは命を分けるのと同じだ。水の残量は帳面に記録してある。分ければ自分の分が減る。損だ。だが迷わなかった。
歩いた。
遠巻きの視線の中を、真っ直ぐに。砂丘の端に座るアナトに向かって。背中に視線を感じた。傭兵の、盗賊の、荷運びの男たちの視線。止めはしない。だが誰もついてこない。
アナトの前に座った。
砂に膝をつき、水袋を差し出した。
何も言わなかった。
問い詰めなかった。「大丈夫ですか」と訊かなかった。「すごかったですね」とも言わなかった。説明を求めなかった。感謝を押しつけなかった。
ただ、水を差し出した。
商人には「言葉を使わない取引」がある。目で語り、仕草で示し、沈黙で信頼を伝える。帳簿に載らない取引だ。一番大事な取引は、いつも帳簿の外にある。
アナトがゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳がアシュタルを見た。疲弊した目だった。力を使い果たした後の、空になった目。いつもの鋭さが消えている。代わりにあったのは——脆さ、とでも言えばいいのか。数千年の戦女神が、今この瞬間だけ見せた脆さ。
水袋を見た。アシュタルの顔を見た。また水袋を見た。
長い沈黙だった。砂漠の風が戻り始めていた。穏やかな風だ。砂嵐の後の風はいつも優しい。世界が暴力を使い果たした後の、疲れた優しさ。
アナトが手を伸ばした。
水袋を受け取った。
口をつけた。一口飲んだ。ぬるい水だ。砂の味がする。だがアナトは文句を言わなかった。いつもなら「人間の水は不味い」くらいは言う。もう一口飲んだ。喉が動くのが見えた。
水袋を膝の上に置いた。
沈黙。
風が吹いた。砂が舞った。
沈黙。
「……すまん」
聞こえなかった。
——いや、聞こえた。聞こえたが、最初は砂漠の風の音だと思った。それほど小さな声だった。砂粒が転がる音よりも小さかった。
アナトの唇が動いていた。目はアシュタルを見ていなかった。砂の上の、どこでもない場所を見ていた。視線が定まらない。戦場では一度も逸らさなかった目が、今は逸れている。
「すまん」
もう一度。今度は——少しだけ大きく。
たった二文字だった。
だがその二文字を、この女神が口にするまでに何千年かかったのだろう。戦争の女神。カナアン最強の戦士。力で全てを解決してきた神が、人間に——人間一人に、謝った。感謝ではなく、謝罪だった。何に対する謝罪なのか。巻き込んだことか。危険にさらしたことか。それとも——もっと別の、自分でもうまく言葉にできない何かに対する。
アシュタルの心臓が跳ねた。
一瞬だけ目を見開いた。自覚している。今、確かに、心臓が跳ねた。
だが——次の瞬間には、口が動いていた。
「水、もう一口いりますか」
何でもないように。世間話のように。
商人の反射だった。大事な瞬間を大事にしすぎない。相手が差し出したものを、大げさに受け取らない。そうすれば相手は恥ずかしくならない。次もまた差し出してくれる。
取引の基本だ。
アナトが一瞬、動きを止めた。アシュタルの顔を見た。金色の瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬。何を確認したのか分からない。だがその揺れの中に——安堵のようなものが見えた気がした。気がしただけかもしれない。
「……いらん」
水袋を返した。声が——少しだけ、いつもの調子に近づいていた。
アシュタルは水袋を受け取り、腰につけた。立ち上がった。
「荷物の整理、手伝ってきます」
背を向けた。歩き出した。
三歩。五歩。七歩。
振り返らなかった。振り返りたかったが、振り返らなかった。ここで振り返れば、さっきの「すまん」を特別なものにしてしまう。特別なものにすれば、アナトは二度とそれを口にしない。
商人は——取引の空気を壊さない。
復旧作業に加わった。砂に埋もれた荷を掘り出す。重い。背中が痛い。だが体を動かしていると、胸の奥で跳ねた心臓の感触が少しだけ薄れた。薄れただけだ。消えてはいない。
帳面は開かなかった。
あの「すまん」は帳面に書かない。書けば文字になる。文字になれば意味が固まる。固まった意味は、もう動かない。
あの声は、まだ動いている。胸の中で、形を定めないまま。
砂漠の復旧作業は日が沈むまで続いた。アナトは砂丘の端に座ったまま動かなかった。力が戻るまで時間がかかるのだろう。夕方になって、ようやく剣を拾い上げ、砂を払った。
日が沈む頃、焚き火を熾した。一つだけ。大きな火を一つだけ。
誰もアナトを火に誘わなかった。アシュタルも誘わなかった。距離は——今は、このままでいい。
焚き火の光が届くか届かないかの場所で、赤い髪の影が星空を見上げていた。
砂漠はまだ続く。そして——二人の間の距離も。




