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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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砂嵐

 地平線の色がおかしかった。


 七日目の昼過ぎ。太陽が中天を少し過ぎた頃、南西の空が黄褐色に染まり始めた。砂漠の青空と黄褐色の境界が、まるで刷毛はけで塗ったように鮮明だった。空が二つに割れている。青い半分と、黄色い半分。


 風が止んだ。


 砂漠で風が止むのは珍しい。常に何かが吹いている。熱風。砂塵。乾いた大気の流れ。それが突然、ぴたりと止まった。


 空気が重くなった。息を吸うと、砂の匂いが濃い。肌がぴりぴりする。毛が逆立つような——本能が何かを察知している。


 アシュタルは歩きながら空を見上げた。黄褐色の壁が、少しずつ大きくなっている。


 ザバルが立ち止まった。


 顔を覆っていた砂避けの布を下ろし、南西の空を睨んだ。日焼けした顔に、初めて見る色が浮かんだ。恐怖ではない。もっと根深い、経験に裏打ちされた警戒。砂漠に十年いた男が、体で覚えた警告。


砂嵐すなあらしが来る」


 声が低かった。


「大きいぞ」


 その一言で商隊が動いた。ザバルの盗賊たちが最初に反応した。砂漠に十年いた者たちだ。体が覚えている。駱駝らくだを伏せ始めた。荷を下ろし、布で覆い、地面に固定する。手際がいい。無駄な動きがない。


 ハダドが傭兵たちに怒鳴った。


「天幕を下ろせ。荷を伏せろ。固まれ」


 傭兵たちが走った。荷運びの男たちも動いた。だが——動きが遅い。港の商人たちは砂嵐を知らない。手順は頭にあっても、体が追いつかない。天幕の支柱を抜こうとして手間取り、荷の固定が甘い。


 アシュタルも走った。荷駄の獣の手綱を掴み、伏せさせようとした。駱駝が嫌がって首を振る。動物の方が先に恐怖を嗅ぎ取っている。目を剥いて泡を吹き、立ち上がろうとする。手綱が手のひらを焼いた。


「布を被せろ。目と鼻を塞げ。人も獣も同じだ」


 ザバルが怒鳴った。盗賊たちが手際よく駱駝を伏せさせていく。こういう時、砂漠の知識は金で買えない価値を持つ。盗賊を雇った判断が正しかったことを、最悪の形で証明されている。


 黄褐色の壁が近づいていた。


 近づいている——というより、迫っていた。地平線を覆い尽くす砂の壁が、天を突くほどの高さで押し寄せてくる。壁の中で砂が渦を巻いているのが見えた。音が聞こえ始めた。低い唸りだ。大地そのものが怒っているような、腹の底に響く重低音。骨が振動している。


「間に合わない」


 ハダドが呻いた。


 天幕はまだ半分しか下ろせていない。荷の固定も終わっていない。砂嵐の速度が、想定より速い。


 砂の壁が空を覆った。太陽が消えた。昼が夜になった。


 来た。


 最初の一撃は風だった。横殴りの暴風が商隊を叩いた。立っていた者が吹き飛んだ。アシュタルは駱駝の胴にしがみついた。砂が顔を打った。目を開けていられない。口を開けば砂が入る。息ができない。


 布で顔を覆った。それでも砂が入り込む。布の繊維の隙間から、針のような砂粒が肌を刺す。


 音がすべてを呑んだ。


 怒鳴り声も、駱駝の鳴き声も、天幕が引き裂かれる音も、すべてが砂嵐の轟音の中に消えた。世界が砂になった。前も後ろも上も下も分からない。あるのは砂と風と闇だけだ。


 駱駝が暴れた。手綱が手から引きちぎれた。獣の体温が遠ざかった。


 一人になった。


 砂の中で膝をついた。手で顔を覆い、体を丸めた。砂が積もっていく。背中に、肩に、頭に。このまま埋もれるのではないかという恐怖が、腹の底から這い上がってきた。


 叫んだ。声は出なかった。砂が口に入った。吐き出した。また入った。


 これが砂漠の力か。


 交渉も数字も帳面も通じない。口が立つとか、頭が回るとか、そんなものは砂粒一つの重さもない。自然の暴力の前に、人間の知恵は無力だった。帳簿では嵐の勘定はできない。


 死ぬのか。ここで。砂に埋もれて。一族を救えないまま。妹の顔が浮かんだ。父の声が聞こえた気がした。


 その時——風が裂けた。


 文字通り、裂けた。アシュタルの頭上で、暴風が左右に分かれた。砂が弾かれた。重い空気が軽くなった。息ができた。


 目を開けた。


 砂嵐の中に、赤い光があった。


 アナトが立っていた。


 双剣を抜き、砂嵐に向かって歩いていた。両腕の戦の紋様が赤く、赤く輝いている。夜の闇よりも深い砂嵐の暗闇の中で、その光だけが燃えていた。赤い髪を覆っていた布が吹き飛び、長い赤髪が砂嵐の風に巻き上げられ、炎のように広がっている。


 刃を振るった。


 風が裂けた。砂の壁に亀裂が走った。もう一振り。暴風が弾かれ、商隊のいる一帯から砂嵐が押し戻された。


 人間の力ではなかった。


 人間では——ありえなかった。


 金色の瞳が砂嵐を睨んでいた。唇が動いた。何か——言葉ではない、もっと古い何かを紡いでいた。人間が言語を持つ前から存在した音。世界のことわりに直接触れる声。


 神力。


 腕の紋様がさらに強く発光した。双剣の刃が光をまとった。アナトが嵐に向かって踏み込んだ。砂嵐がたじろいだ。——そう見えた。天を覆う砂の壁が、一人の女神の前で揺らいだ。


 だが——止まらない。


 嵐の勢いが強すぎる。アナトの刃が風を裂いても、次の瞬間にはまた砂が押し寄せる。天候はバアルの領域だ。嵐を支配するのは嵐の神の力。戦の女神がどれだけ刃を振るっても、嵐そのものを消すことはできない。兄の力が——ここにはない。


 アナトの足が砂にめり込んだ。押されている。腕の紋様が明滅し始めた。安定した発光ではなく、火が消えかかるような不規則な点滅。


 力が——足りない。


 アナトが吼えた。言葉ではない咆哮ほうこうだった。戦の女神の、数千年の矜持きょうじを込めた叫び。双剣を交差させ、渾身の力で振り下ろした。


 風向きが変わった。


 砂嵐が逸れた。消えたのではない。嵐の進路そのものを、力ずくでねじ曲げた。砂の壁が商隊の頭上を越え、反対側に流れていった。


 嵐が過ぎた。


 砂が落ち着くまでの長い時間、世界は黄褐色の霧に包まれていた。


 アナトが膝をついた。


 双剣が砂に突き刺さった。両手が剣の柄から離れない。腕の紋様が弱々しく明滅し、やがて消えた。


 肩で息をしていた。神が息を切らしている。それだけで——その光景だけで、何が起きたかは分かった。


 商隊の者たちが砂の中から顔を上げた。


 一人、また一人。砂を払い、目を擦り、咳き込みながら立ち上がった。そして——アナトを見た。


 畏怖の目だった。


 感謝ではない。驚嘆でもない。もっと原初的な、本能に刻まれた感情。人間が、人間ではないものを目にした時の、背筋が凍るような畏怖。


 誰も近づかなかった。誰も声をかけなかった。


 砂嵐を一人で退けた存在を、人間たちはただ見つめていた。遠巻きに。砂漠の陽光が戻った空の下で、膝をついた赤い髪の女を。


 護衛の女戦士——ではなかった。もうその嘘は通じない。


 あれは、人間ではない。


 砂漠の砂が静かに落ちていく。砂嵐は去った。だが別の嵐が——目に見えない嵐が、商隊の中に生まれようとしていた。


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