星の下
皆が寝静まった後、アシュタルは帳面を持って砂丘を登った。
夜営の焚き火は一つだけ残っていた。傭兵が一人、番をしている。盗賊の一人も眠らず、反対側から砂漠を見張っている。昨日までの敵同士が同じ火を守っている。小さな変化だが、帳面に書く価値はある。
だが今夜は、帳面を開く気になれなかった。
砂丘の頂に座り、空を見上げた。
星だった。
見渡す限りの星だった。ウガルの港で見る星空とは桁が違う。家々の灯りも、船の焚き火も、市場の松明もない砂漠の夜は、星のためだけにあるようだった。白く、青く、かすかに赤い星々が、天蓋を埋め尽くしている。星と星の間に隙間がなかった。闇よりも光の方が多い夜空だ。
港の父なら、この星空に何を見るだろう。航路か。暦か。商機か。商人は何を見ても値段をつける。だがこの星空には値がつけられない。値のつけられないものを前にした時、商人は黙るしかない。
膝の上の帳面に砂がついた。払った。また砂がついた。諦めた。
砂漠ではすべてに砂がつく。帳面にも、服にも、食事にも。たぶん記憶にも。ウガルに帰った後も、何かのたびに砂の感触を思い出すのだろう。
足音がしなかった。
気配もなかった。ただ、隣の空気が変わった。風の流れが僅かに乱れた。それだけで分かった。いつからこの気配を覚えたのか。砂漠に入って六日。もう隣の空気の変化だけで、誰が来たか分かるようになっていた。
「……眠らないんですか」
訊いてから、馬鹿な質問だと思った。神は眠らない。何度一緒に旅をしても、この手の失言は減らない。
アナトは答えなかった。砂丘の頂に、アシュタルから二歩ほど離れて腰を下ろした。膝を抱えず、片膝を立てて座る。戦士の座り方だ。いつでも立ち上がれる。いつでも剣が抜ける。砂漠のどこにいても臨戦態勢を崩さない。それが千年以上戦い続けた者の体に刻まれた習性なのだろう。
砂漠の風が二人の間を吹き抜けた。アナトの赤い髪を覆った布の端が揺れた。
沈黙だった。居心地の悪い沈黙ではなかった。焚き火のない場所の、星明かりだけの沈黙。砂を踏む虫の音が、かすかに聞こえた。
「一つ訊く」
アナトが言った。前を向いたまま。星を見上げたまま訊いた。横を向かない。
「なぜお前は戦わずに済ませようとする」
問いの形をしているが、声は平坦だった。責めているのでも、見下しているのでもない。純粋な疑問。この女神がアシュタルに純粋な疑問を投げかけるようになったのは、いつからだろう。最初は命令しか口にしなかった。次に嘲笑。その次に無視。そして今——問いかけ。
「弱いからか」
アシュタルは少し考えた。
嘘をつくことはできた。商人らしい言い回しで、いくらでも体裁のいい答えを返せた。戦わないことの合理性。暴力の非効率性。平和的解決の経済的優位。父が商談で使う論法をいくつか借りれば、立派な理屈が組み上がる。
だが——星空の下で嘘をつく気になれなかった。
「弱いからです」
言った。
静かに。飾らずに。
アナトが動かなかった。
「僕は剣を持てません。持ったところで振れない。振ったところで誰も倒せない。走って逃げるのが関の山です」
自嘲ではなかった。事実を述べただけだ。商人が帳簿の数字を読み上げるように。赤字を赤字と認めるのは恥ではない。赤字を隠す方がよほど恥だ。
「でも」
帳面の背表紙を指で叩いた。砂がぱらぱらと落ちた。
「戦わないのは、弱さじゃないと思っています。少なくとも——商人の誇りです」
アナトが横を向いた。金色の瞳が星明かりを受けて、淡く光っていた。
「誇り?」
「誰も損をしない取引を作ること。それが僕の武器です」
言葉を選んだ。この相手には、飾った言葉より真っ直ぐな言葉が届く。数千年戦い続けた女神に、商人の理屈がどれほど響くかは分からない。だが嘘は通じない。嘘は——この瞳の前では、砂のように崩れる。
「剣で勝つ人は、剣を抜いた時にしか強くない。相手を倒せば、相手は二度と取引してくれない。でも——取引で勝てば、相手も勝つんです。次もまた取引してくれる。その次も。信用が積み上がる。それが商人の力です」
父の受け売りだ。十五歳の時に初めて一人で商談を任された夜、父が酒を注ぎながら言った言葉。「お前の武器は腕っ節じゃない。頭と口だ。それを恥じるな」
風が止んだ。砂漠の風は気まぐれだ。吹いたり止んだり、まるで呼吸のように。
アナトは黙っていた。
長い沈黙だった。星が一つ流れた。砂漠の地平線の端から天頂に向かって白い線を引き、一瞬で消えた。
アシュタルは待った。返事を急かさなかった。商人は相手の沈黙を待てる。沈黙は考えている証拠だ。考えているなら、交渉は続いている。急かせば台無しになる。
アナトが前を向いた。星空を見上げた。
赤い髪を覆う布の端が風に揺れた。金色の瞳に星の光が映っていた。何千年もこの星空を見てきた瞳だ。何千年分の戦いと、何千年分の孤独を映してきた瞳。その瞳が今、十八歳の商人の言葉を咀嚼している。
力で全てを解決してきた女神にとって、「力を使わないことが力」という考えは——どう聞こえたのだろう。理解できないのか。馬鹿げていると思うのか。それとも——
「……変わった虫だ」
小さな声だった。
ほとんど独り言のような。砂漠の風に乗って消えてしまいそうなほど小さな声。
虫。まだ虫と呼んでいる。蔑称だ。人間を虫と呼ぶのは、神が人間を見下す最たる表現だ。
だが——棘がなかった。
いつもの刺すような鋭さが、声から消えていた。代わりにあったのは——何だろう。困惑か。戸惑いか。あるいはそのどちらでもない、名前のつけられない感情の欠片か。
アシュタルは聞こえなかったふりをした。
星を見上げたまま、何も言わなかった。帳面を開かなかった。この瞬間を文字にする必要はない。文字にしたら壊れてしまう何かが、二人の間の二歩の距離に漂っていた。指摘すれば消える。名前をつければ逃げる。砂漠の夜の風のように、掴もうとすれば指の間をすり抜けるものだ。
砂漠の星空は、何千年も変わらず光っている。
だがこの夜——星の下で、何かが変わった。変わり始めた。名前のつけられない何かが、砂漠の風のように二人の間を吹き抜けた。
いつまで座っていたのか分からない。
アナトが先に立ち上がった。足音を立てずに砂丘を下り始めた。振り返らなかった。赤い髪の影が砂丘の斜面を滑るように消えていった。
アシュタルはもう少しだけ座っていた。帳面を膝に置いたまま、星を数える真似をした。数えられるはずがない。砂漠の星は、商人の帳簿に載せるには多すぎた。
砂丘を下りる頃、東の空がわずかに白み始めていた。夜番の傭兵が焚き火に薪を足す音がした。日常が戻ってくる。砂漠の朝が、何事もなかったかのように始まる。
帳面を開いた。
六日目。星がきれいだった。
それだけ書いて、閉じた。




