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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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夜営の火

 夜営の焚き火が三つ、砂の上に並んでいた。


 一つ目は商隊の本隊。荷運びの男たちと経理係が囲んでいる。二つ目は傭兵たちの火。剣を膝に置いたまま、無言で炎を見つめている。三つ目——砂丘の端に、新たに加わった七人の男たちが自分たちでおこした火。


 三つの火の間に、目に見えない壁があった。


 ハダドが腕を組んで眉をひそめている。傭兵隊長は盗賊たちに背を向けて座り、意図的に視界に入れていない。盗賊のリーダー、ザバルは仲間と低い声で話しながら、時折こちらを窺っていた。


 契約は成立した。だが契約は紙の上の話だ。人間の感情は紙に書けない。


 アシュタルは立ち上がった。


 荷物の中から酒の瓶と干し肉の包みを取り出した。酒は傭兵用の配給から少し借りた分で、干し肉は自分の食事を減らして浮かせた分だ。


 三つの焚き火のちょうど真ん中に座った。


「まずは飯を食いましょう」


 声を上げた。三方の火を囲む全員に聞こえるように。


「腹が減っている時に信用しろと言っても無理ですから」


 誰も動かなかった。


 構わなかった。酒の瓶を開け、干し肉を膝の上に広げた。自分の分の水で干し肉を少し柔らかくし、一切れ口に運んだ。


 旨くはなかった。砂の味がする干し肉だ。だが腹は減っていた。


 酒を一口飲んだ。粗い葡萄酒ぶどうしゅだ。喉が焼けた。


「ウガルの酒屋が聞いたら泣く味ですね」


 独り言のように言った。


 ザバルが鼻を鳴らした。


「砂漠で酒の味を語るのは、余裕があるか馬鹿かのどっちかだ」


「どっちもです」


 さっきも同じことを言った気がする。商人は同じ手を使い回すものだ。


 ザバルが立ち上がり、アシュタルの前に来た。腰を下ろした。干し肉に手を伸ばし、一切れ取った。


「……硬いな」


「砂漠に柔らかい肉はありません」


「オアシスの羊なら柔らかいぞ。焼き加減さえ間違えなければ」


「詳しいですね」


「十年砂漠にいれば嫌でも詳しくなる」


 酒の瓶を差し出した。ザバルが受け取り、一口飲んだ。


「……確かに酒屋が泣く味だ」


 アシュタルが笑った。ザバルも口の端を上げた。


 傭兵の一人が動いた。若い傭兵だ。立ち上がり、アシュタルの横に来た。干し肉に手を伸ばし——ザバルを見た。ザバルも傭兵を見た。


 二人の間に、張り詰めた空気が流れた。


「酒、もらうぞ」


 傭兵が言った。ザバルに向けてではなく、アシュタルに向けて。だがザバルの前を通って瓶を取った。それは——距離を縮める一歩だった。小さな一歩だが。


「どうぞ」


 少しずつ、人が集まり始めた。


 盗賊の一人が干し肉を受け取った。傭兵の一人が酒を飲んだ。荷運びの男が焚き火に薪を足した。三つだった火が、いつの間にか一つの大きな火になっていた。


 会話が生まれた。最初はぎこちなく。


「この先の砂地、どうなっている」


 傭兵が訊いた。地形の話だ。最も無害で、最も実用的な話題。


「三日先に岩場がある。風が強い。天幕は低く張れ」


 ザバルが答えた。十年砂漠を歩いた男の声には、傭兵たちが持っていない知識の重みがあった。


「岩場の手前に枯れ井戸がある。深く掘れば水が出ることがある」


「本当か」


「俺の仲間が二年前に掘り当てた。保証はしないが、覚えておいて損はない」


 傭兵たちが顔を見合わせた。砂漠の盗賊が持つ地理知識は、金を払う価値がある。商隊を襲う者たちが、商隊を助ける情報を持っている。皮肉な話だが、砂漠ではそれが現実だった。


 アシュタルは酒と干し肉を回しながら、両者の間を行き来した。盗賊の側に座って砂漠の話を聞き、傭兵の側に戻って情報を共有する。橋渡し。商人の本業だ。


 ハダドが動いた。


 腕を組んだまま立ち上がり、焚き火の前に来た。手に酒の瓶を持っていた。自分の私物だ。配給品ではない。


 ザバルの前に立った。


 酒を差し出した。


「……お前たちの砂漠の知識は、金を払う価値がある」


 ザバルが見上げた。


 瓶を受け取った。一口飲み、返した。


「あんたの商隊の酒は、金を取る価値がある味だ」


「安物だ」


「砂漠では安物でも高級品だ」


 完全な信頼ではなかった。一夜の酒で敵が味方にはならない。だが——共存の第一歩だ。同じ火を囲み、同じ酒を飲み、同じ砂漠の風に吹かれている。


 それだけで十分だった。今は。


 焚き火の光が届かない場所に、赤い髪の影が座っていた。


 アナトだ。焚き火の輪に加わっていない。膝を抱え、暗がりの中から焚き火を見つめている。金色の瞳に炎の色が映り、揺れていた。


 酒も干し肉も受け取らなかった。人間の食事に興味はない。神は食べなくても生きていける。


 だが——見ていた。


 人間たちが酒を回し、干し肉を分け合い、少しずつ言葉を交わしていく様子を。昨日まで敵だった者たちが、一つの火を囲んでいく様子を。


 何を考えているのだろう。


 アシュタルには分からなかった。戦争の女神が、人間たちの小さな和解をどう見ているのか。「力で解決すれば早いのに」と思っているのか。それとも——


 焚き火に薪を足した。火が大きくなった。炎の光がアナトの座る暗がりまで届いた。


 アナトの金色の瞳と、一瞬だけ目が合った。


 アナトが視線を逸らした。砂漠の闇に目を向けた。


 何も言わなかった。何も言わなくてよかった。


 夜は更けていく。酒が回り、声が低くなり、一人また一人と毛布にくるまって眠りについていく。傭兵と盗賊が同じ焚き火の傍で、背を向け合いながらも同じ火で暖を取っていた。


 アシュタルは帳面を開いた。


 五日目夜。盗賊合流初日の夜営。傭兵と盗賊の間に最低限の会話が成立。ハダドが自ら動いた。融和の第一段階——完了。


 帳面を閉じた。


 焚き火の向こうで、アナトがまだ座っていた。神は眠らない。砂漠の星空の下、金色の瞳が何かを見つめている。


 その視線がどこに向いているのか——炎なのか、星なのか、それとも別の何かなのか——砂漠の夜はまだ長かった。


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