盗賊の影
砂漠四日目。砂丘の稜線に、影がちらついていた。
朝から何度も見えた。砂丘を越える時、振り返ると人影が消える。前を向いて歩き出すと、また現れる。猫と鼠の追いかけっこだ。ただし鼠の方が圧倒的に大人数だった。
傭兵たちの顔が険しくなっていた。腰の剣に手をかける者が増え、隊列の空気が張り詰めていく。荷運びの男たちは無言で足を速め、駱駝の手綱を強く握っている。
昼の休憩を待たず、ハダドが幹部を集めた。
天幕の中に集まったのは五人。ハダド、傭兵隊長、商隊の経理係、荷駄の番頭、そしてアシュタル。天幕の外にアナトが立っていた。護衛として。
傭兵隊長が口を開いた。
「先制攻撃だ」
がっしりとした体躯の男だった。腕に古い刀傷がいくつもある。傭兵として何度も砂漠を渡った男の目には、迷いがなかった。
「待っていたら夜襲される。こちらから仕掛ければ、不意を突ける。傭兵は十二人。全員戦える」
「相手の数は?」
アシュタルが問うた。
「見張りの報告では二十から三十。だが砂漠の盗賊は数を多く見せる。実際は十五前後だろう」
「十五対十二。勝てますか」
「勝てる。ただし——」
傭兵隊長の声が低くなった。
「三、四人は怪我をする。一人か二人は死ぬかもしれん」
天幕の中に沈黙が落ちた。
荷駄の番頭が唇を舐めた。経理係が帳面を握りしめている。ハダドが腕を組んで黙っていた。
アシュタルは帳面を開いた。
「もう一つ、方法があります」
全員の目が集まった。
「交渉です」
傭兵隊長の眉が跳ね上がった。
「交渉? 盗賊と?」
「はい」
「馬鹿を言うな。盗賊は荷物を奪うのが仕事だ。話を聞く相手じゃない」
「でも、まだ襲ってきていない」
アシュタルは帳面のページを捲った。尾行を確認してから丸一日。その間、盗賊は動いていない。
「四日目です。三日目の夕方に姿を見せてから丸一日、襲撃がない。なぜか。——向こうにもまだ決断できない理由がある。つまり、交渉の余地があるということです」
「理由? ただ時機を見計らっているだけだろう」
「時機を見計らうのは、損得を計算しているからです。盗賊だって損得で動いている」
アシュタルは立ち上がり、天幕の壁に向かって帳面を掲げた。
「商隊を襲うのは利益のためです。荷物を奪える。だが代償もある。傭兵十二人と戦えば、こちらも傷つくが向こうも傷つく。砂漠の真ん中で怪我人を抱えれば、次のオアシスまで辿り着けない者が出る。盗賊にとっても博打なんです」
傭兵隊長が口を開きかけた。
「だから——」
「襲うより得になる提案ができれば、戦わずに済む」
沈黙。
傭兵隊長が唸った。納得はしていない。だが——否定もできない顔をしていた。
「……失敗したらどうする」
「その時は傭兵隊長の策で行きます。先制攻撃。ただし、僕が交渉に行くのが先です。失敗しても情報は持ち帰れる。相手の数、装備、陣形。偵察としても無駄にはなりません」
ハダドが腕を組んだまま、アシュタルを見ていた。値踏みする目だ。商人の目だった。
「タグムの息子。やってみろ」
傭兵隊長が何か言いかけたが、ハダドが手で制した。
「ただし護衛をつける。一人で行くな」
「いえ。僕が行きます。一人で」
天幕の中が凍った。
「一人でだと?」
「護衛を連れて行けば、向こうは『戦いに来た』と判断します。一人なら『話をしに来た』と分かる。交渉は形から入るんです」
ハダドの目が細くなった。
「お前、肝が据わっているのか、頭がおかしいのか」
「どちらもです」
天幕の布がめくれた。
アナトが入ってきた。金色の瞳が天幕の中を一瞥し、アシュタルに向いた。
「一人では行かせない」
短い言葉だった。表情は変わらない。戦争の女神の顔のまま、淡々と言った。
「私が護衛として同行する。離れた場所で待機する。お前が交渉している間、手は出さない。——だが、万が一の時は斬る」
護衛の義務だ。契約上、アシュタルが死ねば困るのはアナトだ。合理的な判断。
それだけだ——と、アナトの目は言っていた。
だが天幕に入ってくる必要はなかったはずだ。外で聞いていたのだから。わざわざ入ってきて、自分の口で言った。それが何を意味するのか、アシュタルには分からなかった。
いや——分からないふりをした。
「ありがとうございます」
明日。砂丘の向こうへ。
帳面に一行書き加えた。
四日目。盗賊との接触を明日に予定。交渉材料——考える。今夜中に。
盗賊は近づいている。こちらも動く。
商人の武器は剣ではない。口だ。




