水の値段
砂漠三日目の朝、帳面の数字が狂った。
予定していたオアシスは、枯れていた。
砂の窪みの中に、僅かな湿り気と干からびた椰子の幹が残っているだけだった。水は一滴もない。地面に手を当てると砂は乾いていて、最後に水があったのは数ヶ月前——いや、もっと前かもしれなかった。
アシュタルは帳面を広げ、数字を修正し始めた。
水袋の残量。一人当たりの消費量。次のオアシスまでの距離。計算し直す。全てを。
商隊に不安が広がるのは早かった。
朝の配給で水袋を持ち上げた者たちが、その軽さに顔色を変えた。水が足りないのではないか。ここで引き返すべきではないか。囁きが隊列を這うように伝わっていく。
「引き返した方がいいんじゃないのか」
荷運びの男が声を上げた。他の者たちも頷いている。
「ここから港町まで三日。水は三日分ある。前に進むより、戻る方が確実だ」
理屈は通っている。だが——戻れば、十五日以上の遅れになる。呪いの進行は待ってくれない。弟の手紙の震える字を思い出した。あと百二十日。一日たりとも無駄にはできない。
それは個人的な事情だ。商隊には関係ない。だからその理由は口にしなかった。
「皆さん、聞いてください」
アシュタルは帳面を掲げた。
声を張った。商人の声だ。広場で値を叫ぶ時の、遠くまで通る声。
「水袋の残量は全部で百三十二リタル。一人当たりの一日の消費量は一・六リタル。四十人で、一日に六十四リタル」
数字を読み上げていく。全員の目がアシュタルの帳面に集まった。
「次のオアシスまであと二日。二日分の消費量は百二十八リタル。残量との差は四リタル。——一割の余裕があります」
沈黙が落ちた。
「一割で足りるのか」
傭兵の一人が問うた。
「足ります。ただし、行軍を昼の最も暑い二刻は中断します。暑い時間に歩けば汗で消費量が跳ね上がる。朝と夕方に歩き、昼は天幕の下で休む。これで消費量を二割抑えられる」
帳面の数字を指でなぞりながら、全員の顔を見回した。
「恐怖の正体は、たいてい計算不足です」
父の言葉だった。父タグムが商談の席で何度も言っていた言葉。不安に呑まれそうになった時、帳面を開いて数字を確認しろ。数字が大丈夫だと言っているなら、大丈夫だ。
「計算上、水は足りる。あとは歩くだけです」
荷運びの男が、黙って水袋を肩に掛け直した。傭兵が頷いた。囁きが止んだ。
数字は嘘をつかない。恐怖を数字に変換すれば、対処できる問題になる。それが商人の武器だった。
行軍が再開した。
昼の二刻は天幕の下で休んだ。天幕の中も暑いが、砂漠の直射日光の下を歩くよりはましだ。アシュタルは休みながらも帳面を開き、水の消費量を記録し続けた。
ハダドが水袋を一つ持って隣に座った。
「タグムの息子。数字で不安を消すのか」
「消すというより、形を変えるんです。不安は正体が分からないから怖い。数字にすれば、大きさが分かる。大きさが分かれば対処できる」
「お前の親父もそうだったのか」
「父は言っていました。『恐怖の正体は、たいてい計算不足だ』と」
ハダドが水袋から一口飲み、口元を拭った。
「いい親父だな」
「ええ。——だから、早く帰りたいんです」
口が滑った。ハダドがこちらを見た。アシュタルは小さく笑って誤魔化した。
「すみません。独り言です」
「独り言にしちゃ、重い声だったがな」
ハダドはそれ以上追及しなかった。商人は他人の事情に踏み込まない。それが砂漠の商隊の礼儀だった。
夕方、行軍を再開した。日が傾き、砂の色が白から橙に変わる。影が長く伸びる。駱駝の足元が砂に沈み、商隊の一列が砂丘の稜線に影を落とした。
アシュタルは歩きながら水袋の残量を確認した。計算通りだ。明後日の昼には次のオアシスに着く。
そう思った時、ハダドが横に並んだ。
今度は声が低かった。耳打ちだ。
「タグムの息子。あの砂丘の向こう——見張りが影を見た」
アシュタルの筆が止まった。
「影?」
「人影だ。こちらの進路に沿って動いている。一人や二人じゃない」
砂丘の稜線を見た。夕日に照らされた砂の上に、何かが——いや、見えない。見えないが、ハダドの目は商人の目より遠くを見る。
「尾けられている」
ハダドの声は断定だった。
「盗賊です」
「たぶんな」
水の問題は解決した。だが砂漠の脅威は水だけではなかった。
帳面に一行書き加えた。
三日目夕刻。砂丘の向こうに人影。尾行の可能性——高い。
筆を握る指が、僅かに震えた。




