砂漠の一歩
空が紫から橙に変わる頃、商隊は動き出した。
荷駄の獣——二瘤の駱駝が鼻息を鳴らし、傭兵たちの革鎧が擦れ合う音が砂地に響いた。商人たちは低い声で積荷の確認をしている。二十頭の駱駝、四十人の人間、そして一柱の戦争の女神。最後の一つを知っているのはアシュタルだけだ。
アシュタルは隊列の先頭近くに立ち、地図を広げていた。
羊皮紙の上に描かれた交易路は、一本の線でしかない。だがこの線の上を歩くのに十五日以上かかる。砂漠は地図で見るよりずっと広い。それを知っているのが、地図を読める人間と砂漠を歩いたことがある人間の違いだった。
「最初のオアシスまで三日」
帳面を開き、数字を書き込んだ。水袋の総量。一人当たりの一日の消費量。駱駝の飲水量。気温による蒸発の補正。
「一日の行軍距離を計算すると、水の消費量は——」
「タグムの息子」
ハダドが横に並んだ。日焼けした腕を組み、アシュタルの帳面を覗き込んでいる。商隊の副隊長を務める男で、太い首に金色の耳飾りをつけている。もともとは商隊の隊長が倒れた後を受け持ったのがハダドだった。アシュタルが交渉役として加わったのは数日前のことだ。
「数字で砂漠を歩くのか」
「砂漠も帳簿と同じです。入りと出を管理すれば、必ず渡れる」
ハダドが唸った。信じているわけではないが、否定もできないという顔だった。
「お前の親父に似てきたな」
「父に比べたら、まだ帳面一冊分の経験しかありませんけどね」
太陽が地平線から顔を出すと、砂漠は一変した。
紫と橙のまどろみが消え、白い光が世界を埋め尽くした。砂が光を反射する。足元が熱くなる。空気が乾き始め、一歩ごとに肺から水分が奪われていくのが分かった。
アシュタルは歩きながら記録を続けた。気温。風向き。水の消費量。歩いた距離。帳面の頁が砂で汚れるのを指で払いながら、筆を止めなかった。
商人にとって記録は命綱だ。数字は嘘をつかない。恐怖は嘘をつく。だから数字を書く。
隊列の後方に、アナトがいた。
赤い髪を布で覆い、護衛の女戦士として商隊に紛れている。黙って歩いている。汗一つかいていない。砂漠の熱も乾燥も、この女神には何の意味もないのだろう。
傭兵たちが水袋に口をつけるたび、アナトはそれを不思議そうに見ていた。人間がこまめに水を飲まなければ倒れるという事実が、どうにも理解しがたいらしい。
昼を過ぎた頃、隊列の足取りが目に見えて重くなった。
駱駝は平気だ。砂漠に生きる獣は暑さに慣れている。だが人間はそうではない。荷運びの男たちが額の汗を拭い、傭兵たちが口数を減らした。砂を踏むたびに靴の中に砂が入り、足の裏が擦れる。小さな不快が積み重なっていく。
アシュタルも例外ではなかった。喉が渇く。足が重い。帳面を持つ手が汗で滑る。だが記録を止めない。
日が傾き始めた頃、ハダドが号令をかけた。
「野営だ。ここで止まる」
最初の夜営地。
天幕が立てられ、焚き火の準備が始まった。砂漠の夜は冷える。昼の灼熱が嘘のように、日が沈むと気温は急速に落ちていく。
アシュタルは焚き火の前に帳面を広げ、配分表を作り始めた。
水と食料の配分だ。四十人分。ただし——全員に同じ量を配るわけではない。
「荷運びの者には水を多めに。身体を動かす仕事は消耗が大きい」
帳面に数字を書きながら、隊の各係に指示を出していく。
「見張り番の者は食事を後回しにする代わりに、温かい粥を用意します。冷めた干し肉より体が温まる」
「傭兵の連中には?」
「傭兵は水も食事も標準量で。ただし、酒を少し。夜の見回りの前に身体を温めるためです」
ハダドが腕を組んだ。
「全員に公平に配る方が揉めないだろう」
「公平と最適は違います」
アシュタルは帳面の数字を指で示した。
「公平に配れば誰も不満は言いません。でも、荷運びの者は明日、水が足りずに倒れる。見張りの者は冷えた体で夜を越えられない。全員が同じ量を受け取って、全員が少しずつ足りない。それが公平の弱点です」
「じゃあ、不満はどう抑える」
「理由を説明します。数字で。荷運びにはこれだけの水が必要な理由。見張りには温かい食事が必要な理由。納得すれば人は不満を飲み込める。納得できないのは、理由が見えない時です」
ハダドが黙って頷いた。
配分が始まった。荷運びの男たちが普段より多い水を受け取り、怪訝な顔をした。アシュタルが理由を説明すると、男たちは黙って頷いた。見張りの者が温かい粥を受け取り、小さく礼を言った。
些細なことだ。だが砂漠の旅では些細な信頼が命を繋ぐ。
焚き火の向こう側で、アナトが地面に座っていた。配られた水に手をつけていない。飲む必要がないからだ。
金色の瞳が、配分を終えたアシュタルをちらりと見た。何か言いたげにも見えたが、結局何も言わなかった。
一日目が終わった。
アシュタルは帳面の最後に一行書き加えた。
砂漠初日。消費量は想定内。隊の結束はまだ弱い。あと十四日以上。
帳面を閉じ、空を見上げた。
砂漠の夜空は、港町の比ではなかった。星が砂のように散らばっている。天の川が白い帯になって空を横切り、明日の進路を示す星が東の空で瞬いていた。
本格的な試練は、これからだ。




