表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

85/141

弟からの手紙

 出発前夜だった。


 港町の宿の一室。窓の外に月が出ている。半月が雲の隙間から顔を覗かせ、砂漠を銀色に照らしていた。明日の夜明けには商隊と共にあの砂の海に入る。


 荷物は整えた。水袋、干し肉、乾燥果実、砂よけの布、夜間用の毛布。外套のフードに砂が入り込まないよう縫い目を確認し、靴底の減りを点検した。商人は足が命だ。砂漠で靴が壊れたら、そこで取引は終わる。靴紐を結び直し、予備の革紐を腰袋に入れた。


 荷物の最終確認を終え、帳面を開いた。明日からの行程を書き出そうとした時だった。


 扉が叩かれた。


「お客さん、手紙だよ」


 宿の主人だった。扉を開けると、小太りの中年男が封書を差し出した。


「ウガルから、シャリムって男の伝手つてで届いた。商隊の連絡網を使ったらしい。港から港へ、商船と商隊を乗り継いでここまで来たんだとさ。よく回ってきたもんだ」


 シャリム。


 親友の名前だった。ウガルで一族の商売を預けてきた男。「帰ったら利子つけて返してもらうぞ」と笑って送り出してくれた男だ。あいつの伝手なら、商人の連絡網を使って手紙を回すこともできる。商人同士の信書は、戦時でも届く。それが商人の誇りだ。


 封書を受け取った。


 宿の主人が去り、扉を閉めた。月明かりの中で封書を見た。表書きには「兄ちゃんへ」と書かれていた。


 弟の字だ。


 ヤリムの字だった。だが——以前の字とは違った。以前はもっと太く、勢いがあった。十四歳の少年の字だった。走り書きで、時々字が潰れて読めないこともあったが、それは急いでいるからで、手に力がないからではなかった。


 今、封書の表に書かれた「兄ちゃんへ」の三文字は——震えていた。


 封を切った。


 手紙を広げた。


 月明かりでは薄暗い。燭台に灯を入れた。炎が揺れ、手紙の上に橙色の光が落ちる。


 読んだ。


 ——兄ちゃん、元気? 僕は元気だよ。


 最初の一行で、胸が詰まった。


 字が震えている。一文字ごとに、筆先が紙の上で迷っている跡がある。力が入らないのだ。眠れていないのだろう。不眠が続けば手が震える。筆をどれだけの力で押しつければいいのか、疲労に蝕まれた指では制御しきれない。


 ——声は出なくなったけど、筆で話せるから大丈夫。


 声が出なくなった。


 帳面に記録した呪いの進行表が頭に浮かぶ。段階一——味覚の喪失。これは旅の前から始まっていた。蜂蜜パンの味がしないと、弟は笑って言っていた。段階二——不眠。父が夜通し目を開けていた日々のことを覚えている。段階三——声の喪失。


 段階が、進んでいる。


 ——母ちゃんが毎日おかゆ作ってくれるんだ。僕が飲み込みやすいやつ。温かいのが分からないから、たまに口の中やけどするけど、大丈夫。すぐ治るし。


 飲み込みやすいもの。固形物が食べにくくなっているのか。温度が分からない——触覚の喪失がさらに進んでいる。火傷しても「すぐ治る」。治癒するのは呪いの性質だ。「生ける死人」は死なない。傷は塞がる。だが感覚は戻らない。治るのに感じない。生きているのに死んでいく。


 ——シャリム兄ちゃんが商会のこと手伝ってくれてる。兄ちゃんの代わりにはなれないけどって言ってたけど、けっこうやるよ。父ちゃんも認めてた。帳簿の付け方が独特すぎて、母ちゃんには読めないって文句言われてたけど。


 シャリムが商会を回している。父が認めた。シャリムなら大丈夫だ。あいつは口は軽いが腕は確かだ。帳簿が独特なのは昔からだ。数字の並べ方が常人と違う。だが合計は必ず合う。


 ——兄ちゃんの分まで食べてるよ(味はしないけど)。


 括弧書きだった。


 本文ではなく、括弧の中に入れてあった。まるで——大したことじゃないと言うように。笑って付け加えたように。味はしないけど、と。十四歳の弟が、精一杯の軽さで書いた括弧だ。この括弧の中に、どれだけの我慢が詰まっているか。


 味覚の喪失は続いている。不眠に蝕まれ、声を失い。次は何だ。触覚か。視覚か。一つずつ、世界との繋がりが断たれていく。「生ける死人」——モトの呪いの本質は、生きたまま世界から切り離されることだ。心臓は動いている。息はしている。傷は治る。だが世界を感じる手段が、一つずつ奪われていく。


 手紙は最後にこう結ばれていた。


 ——早く帰ってきてね。待ってるから。


 字が、一番震えていた。


 「待ってるから」の「か」の字が潰れている。筆の力が足りなかったのだ。最後の一文字に、弟の全てが滲んでいた。


 手紙を置いた。帳面を取り出した。


 呪いの進行表を開く。出発時の記録と照らし合わせる。旅に出て約三十日。その間に段階一から段階三へ進行した。一段階あたり約十五日。進行が等速だと仮定すれば——。


 一族に残された時間——約百二十日。


 百二十日で、バアルを見つけ、冥界から連れ戻し、呪いを解く方法を見つけなければならない。砂漠越えに十五日。冥界への道のりは未知数。交渉にかかる時間も未知数。帰路も含めれば——


 間に合うのか。


 帳面の数字が揺れた。


 揺れたのは数字ではない。自分の手だ。帳面を持つ指が震えていた。


 深く息を吐いた。


 商人は感情で数字を歪めない。恐怖は経費だ。払えるうちは払う。払えなくなったら——その時に考える。今やるべきことは、目の前の数字を正確に読むことだ。感情を帳面に記入する欄はない。


 帳面に書いた。


 残り百二十日。砂漠越え十五日。冥界到達まで推定三十〜四十日。交渉に必要な日数——不明。帰路——不明。


 不明が多すぎる。だが不明を恐れていては商人は務まらない。不明は未確定の債権だ。回収の見込みが立てば、価値が生まれる。見込みを立てるために、情報を集める。情報を集めるために、前に進む。


 帳面を閉じた。


 扉が開いた。


 アナトだった。


 隣の部屋から来たのだろう。音もなく入ってきて——アシュタルを見て、足を止めた。


 何を見たのだろう。月明かりと燭台の灯りの中で、手紙を握りしめた人間の姿。目が赤いわけではない。涙を流したわけでもない。ただ——何かが、顔に出ていたのだろう。弟の手紙を読んだ後の、処理しきれない何かが。


 アナトは何も言わなかった。


 扉の前に立ったまま、金色の目でアシュタルを見ていた。その目に浮かんでいるものは——何だろう。慰めではない。同情でもない。神は人間の悲しみを知らない。知らないが——見えている。目の前の人間が痛んでいることは、見えている。


 アシュタルも何も言わなかった。


 沈黙が部屋を満たした。燭台の炎が揺れ、二人の影が壁に伸びている。窓の外で風が砂を巻き上げる音がした。遠くで駱駝が鳴いている。明日の旅を知っているかのように、低く、長く。


 やがて——アシュタルが手紙を折り畳んだ。丁寧に、元の折り目に沿って。一つ一つの折り目を指で押さえ、きっちりと。懐にしまった。帳面と同じ場所に。帳面は仕事の道具だ。手紙は——それとは別の、もっと大切なものだ。


「……明日、出発ですね」


 声は平静だった。いつもの、やや軽い商人の声。だが手紙をしまった懐を押さえる指の節が、白かった。


 アナトは答えなかった。


 ただ一歩、部屋の中に入った。窓辺に歩き、窓枠に背をもたれた。腕を組み、砂漠の方角を見た。月光に照らされた砂の海を、金色の目が見つめている。


 そこにいた。


 慰めの言葉は知らない。労りの手を差し伸べるすべも持たない。神は人間の悲しみに触れる作法を学んでいない。何千年も戦ってきたこの女神は、剣で敵を斬ることはできても、傷ついた者の隣に座る方法を知らない。


 だが——そこにいた。出ていかなかった。


 それだけで充分だった。


 アシュタルは帳面を開いた。明日の行程を書き出す。出発の時刻。水の配分。荷の確認手順。行進の順序。夜営地の候補。やるべきことは多い。手を動かしていれば、指の震えは止まる。


 窓の外に砂漠が広がっている。月光に照らされた砂の海は、銀色に光っていた。静かで、美しくて、残酷だった。あの砂の下に、弟の声を奪った呪いの根源がある。


 急がなければならない。弟の字が震えている。声が消えた。味が消えた。次は——考えるな。考えるのは帳面の上だけでいい。感情は括弧の中にしまえ。弟がそうしたように。


 だが砂漠は急げない。十五日は十五日だ。人間の焦りで砂漠は縮まない。


 その矛盾を、商人はどう解くのか。


 帳面の最後に、一行だけ書いた。


 ——間に合わせる。


 帳面を閉じた。懐の手紙が、心臓の鼓動と一緒に脈打っている気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ