女護衛
傭兵たちの目が集まった。
商隊の野営地の広場——焚き火が囲む開けた砂地に、アシュタルはアナトを連れて立っていた。ハダドが天幕から出てきて、腕を組んで壁にもたれている。夕暮れの空が橙から紫に変わりつつあり、焚き火の光が人々の顔を赤く照らしていた。
「護衛の女戦士です。腕は確かです」
アシュタルが紹介した。横に立つアナトは無言だった。赤い髪を高く結い上げ、切れ長の金色の目で広場を一瞥しただけだ。腰の両側に双剣の柄が覗いている。外套の袖から両腕の紋様がかすかに見えたが、焚き火の光では模様までは分からないだろう。
傭兵たちが顔を見合わせた。十人いる。全員が日に焼け、傷だらけの腕を晒し、腰に刃物を帯びた男たちだ。砂漠を護衛として何度も越えてきた者たち。腕に自信があり、それゆえに他者の腕に厳しい。その中の一人——顎に古い刀傷がある大柄な男が、最初に口を開いた。
「女の護衛?」
笑い交じりの声だった。嘲りを隠す気もない。周囲の傭兵たちに目配せして、笑いを誘っている。
「見た目はいいが、砂漠で役に立つのか。砂漠の盗賊は女を見たら剣より先に別のことを考えるぞ」
別の傭兵が続いた。若い男で、額に日焼けの痕がある。
「剣を二本も差してるが、振れるのかね。重くないか」
下卑た笑いが広がった。焚き火のはぜる音と混ざって、野営地に響く。
アシュタルはアナトの横顔を見た。
無表情だった。傭兵たちの嘲笑が耳に入っていないかのように、ただ前を向いている。だが——両腕の紋様が、外套の袖口からわずかに覗いていた。赤い線が、微かに脈打っている。怒りの兆候だ。ヤムの宮殿で見た。あの紋様が赤く燃える時、アナトは戦の女神になる。
まずい、と思った。
「腕試しでもするか」
顎の傷の傭兵が一歩前に出た。ガリルと呼ばれていた男だ。手を広げて見せる。武器を取る気はない——素手で組み合う程度の気軽さだ。余興。退屈しのぎ。十日以上も足止めされた傭兵の鬱憤が、格好の的を見つけたのだ。
「いやらしい真似をするなよ、ガリル。女相手だぞ」
「分かってるよ。軽くだ、軽く」
傭兵たちが笑っている。焚き火の光で歯が白く光った。
アナトは動かなかった。傭兵を見もしなかった。
代わりに、傍にある岩に目を向けた。
野営地の広場の端に転がっている岩だった。人の頭ほどの大きさの、砂岩の塊。焚き火の囲いに使われていたものだろう。表面が煤で黒ずんでいる。何の変哲もない岩だ。
アナトが歩いた。二歩。傭兵たちの方ではなく、岩の方へ。傭兵たちは怪訝な顔で見ている。逃げるのか、と笑いかけた者もいた。
片手を伸ばした。
岩に触れた。指が石の表面を掴む。ただそれだけの、何気ない動作に見えた。
握った。
砕けた。
音が——乾いた、短い音だった。石と石がぶつかる音ではない。もっと根本的な——物の形が壊れる時の、低い破裂音。アナトの指が岩を握り潰した。砂と石の破片が指の間からこぼれ落ち、地面に散った。砂煙が小さく舞い上がる。砕けた破片が焚き火の端に転がり、火の粉が散った。
握っていたものを離した。掌に残ったのは細かい砂だけだった。手を払う。砂が風に散る。
沈黙が降りた。
笑い声が消えていた。傭兵たちの顔から、嘲りの色が完全に消えていた。代わりにあるのは——理解の及ばないものを見た時の、本能的な静けさだ。言葉を失うとはこういうことだ。人間の手が岩を砕く。そんなことは起きない。だが起きた。目の前で。
顎の傷の傭兵——ガリルが、差し出しかけた手を下ろした。唇が引き結ばれている。一歩、後退った。無意識の動きだった。本能が言っているのだ。あれに近づくな、と。
アナトが振り返った。表情は変わらない。傭兵たちを見もしない。アシュタルだけを見た。
「終わったか」
何が、とは聞かなかった。
アシュタルはアナトの傍に寄り、小声で言った。聞こえないように——だが充分な圧を込めて。
「やりすぎです」
「侮られるのが嫌だっただけだ」
「岩じゃなくて地面を蹴るくらいにしてください。次からは」
「弱く見せろと?」
「加減を覚えてくださいと言っています」
アナトの目がわずかに細くなった。不快ではない——不思議そうな顔だ。人間に指図されることに、まだ慣れていない。だが以前のように怒鳴り返すこともなくなっていた。旅の前半なら「黙れ、人間」で終わっていた会話だ。今は——鼻を鳴らすだけだ。
「……次はないと思うが」
「あるんですよ、こういうことは。人間の社会では」
低い笑い声が聞こえた。
ハダドだった。壁にもたれたまま、腕を組んだまま、低く——だが心底おかしそうに笑っていた。皺の深い顔に浮かんだ笑みは、商人が掘り出し物を見つけた時の顔に似ていた。
「……護衛としては、申し分ないな」
傭兵たちが視線を交わした。認めたくはないが、認めるしかない。あの岩を片手で砕ける人間を、嘲笑できる人間はこの場にいない。ガリルが黙ってもとの場所に戻り、賽を手に取ったが、転がす気配はなかった。
ただし——畏怖の目もあった。
強い女、ではない。《《強すぎる》》女だ。人間にできることではない。あの力は——何だ。怪力の戦士は砂漠にもいるが、岩を片手で砕く者はいない。人の域を超えている。
傭兵の何人かが、アナトを畏れの目で見ていた。距離を取っている。近づきたくないのだ。あの手に触れられたら、自分の骨も岩と同じように砕けるのではないかと考えている。恐怖だ。尊敬ではなく、本能的な忌避。
アシュタルはそれを見ていた。
神の力が人間の中にあると、こうなる。畏怖と恐怖。アナトの正体が露見すれば——「女戦士」では済まない。神が商隊にいると知れば、人間たちは恐慌をきたす。あるいは逆に、神の加護を求めて群がってくるかもしれない。どちらにしても面倒だ。
人間のふりは、長くは持たないかもしれない。
帳面に一行書いた。アナトの正体——隠し通せるか。要注意。
だが今は——先に進む。
ハダドが天幕の前で手を叩いた。大きな掌が乾いた音を立てる。
「決まりだ。明後日の夜明けに出発する。それまでに水と食料の最終確認を済ませろ」
商隊の面々が動き始めた。停滞していた空気が、わずかに流れ始めている。出発が決まった。窓は、まだ開いている。十日余り立ち往生していた集団に、ようやく方向が生まれた。
アシュタルは帳面を開いた。出発準備の項目を書き出す。水の追加調達。食料の点検。砂よけ装備の確認。護衛の配置。行程表の作成。夜営地の選定。
やるべきことは山のようにある。だが山があるほうがいい。やるべきことがある時、商人の手は震えない。
帳面を閉じた。
合流は果たした。旅の出発準備が進む。
だがその前に——港町で最後にやるべきことがある。出発してしまえば、しばらくは文明から離れる。届くものがあるなら、今のうちだ。




