商人の名刺
焚き火が点々と灯っていた。
港町の南外れ、砂地と石地の境目に商隊の野営地が広がっている。天幕が十張りほど並び、荷駄用の驢馬と駱駝が柵の中に繋がれていた。焚き火の傍で傭兵たちが賽を転がし、荷主たちが天幕の下で帳簿を睨んでいる。駱駝が低い声で鳴き、驢馬が蹄で砂を掻いている。
停滞の空気だった。
出発できない苛立ちが、野営地全体に澱んでいる。傭兵は暇を持て余し、商人たちは滞在費と季節の窓を天秤にかけて顔を曇らせている。焚き火の煙が風に巻かれ、砂の匂いと混ざっていた。活気ある商隊の野営地ではない。立ち往生した集団の宿営だ。
アシュタルは野営地の入口で足を止めた。
息を整える。外套の砂を払い、帳面の位置を確認する。腰袋の中、すぐに取り出せる場所。筆記具も問題ない。前髪を払い、背筋を伸ばした。
商談の前に身なりを整えるのは基本だ。相手は会話の前に外見から値踏みを始める。若さは不利だが、身なりの整え方で教養は伝わる。
「行きましょう」
隣のアナトに声をかけた。アナトは無言で頷いた。外套で双剣を隠している。人間に見えるように——とまでは言わなかったが、目立つことを避けてくれているのだろう。ありがたい。
野営地に入ると、視線が集まった。見知らぬ若者と、赤い髪の女。傭兵たちが手を止め、商人たちが天幕から顔を出す。警戒の目だ。砂漠の入口に集まる者たちは、余所者に敏感になる。余所者は危険の種にも、厄介事の種にもなる。
中央の天幕の前で、男が立っていた。
白髪交じりの壮年の商人だった。日焼けした肌に深い皺が刻まれ、顎には短く刈り込んだ髭がある。手は大きく、節くれだっている。帳面ではなく帳簿を小脇に抱えていた。実務の人間だ、と一目で分かった。数字を扱う手だ。そして目が厳しい。こちらを見るその目は、品物を検める時の目だ。表面だけでなく、中身まで見透かそうとする目。
「副隊長のハダドさんですか」
先に名乗るのは後。まず相手を確認する。商談の主導権は、最初に質問した側が握る。
「ああ。お前は」
「ウガルのベン=シャハル商会の息子です。アシュタルと申します」
ハダドの目が変わった。
厳しさは消えなかったが、そこに別の光が混じった。値踏みの精度が一段上がった目だ。聞いたことのある名前に触れた時の、商人特有の反応だった。
「ベン=シャハル? ——ウガルの、あのタグムのか」
「父をご存じですか」
「知っているも何も」
ハダドが腕を組んだ。
「タグムの名はこの辺りでも通っている。砂漠の南の商人がウガルの塩を買う時に、必ず名前が出る商会だ。信用取引の手形を最初に広めたのはタグムだと聞いたぞ。——だが」
目がアシュタルの全身を舐めた。頭から爪先まで、一瞬で。
「若いな。いくつだ」
「十八です」
「十八」
ハダドの声に、期待が萎む音が混じった。当然だ。砂漠越えの商隊に、十八歳の若造が飛び込んできて何ができる。父の名前だけでは信用は買えない。名前は信用の入口に立たせてくれるが、その先に進むには実力がいる。
「中で話せるか。立ち話は砂を噛む」
ハダドが天幕の入口を顎でしゃくった。招かれた。席についた。これで半分だ。父の言葉だ。商談は、相手が席についた時点で半分成功している。
天幕の中は薄暗く、革と香の匂いがした。獣脂の灯りが揺れ、簡素な机の上に帳簿と地図が広げられている。地図には交易路が太い線で引かれ、水場の位置に赤い印がつけてあった。ハダドが机の向こうに座り、アシュタルを見た。
「それで。タグムの息子が何の用だ」
「取引を持ちかけに来ました」
帳面を開いた。
「砂漠越えに同行させてください。護衛を一人連れています。代わりに——交渉事は僕に任せてもらえませんか」
ハダドの目が細くなった。
「交渉事だと?」
「はい。物資の調達、現地商人との折衝、通行料の交渉。商隊の渉外全般です」
「若造が渉外を? この辺りの商慣習を知っているのか」
「数字を出します」
アシュタルは帳面をめくった。
「この商隊の荷駄は二十頭。うち駱駝が十二頭、驢馬が八頭。駱駝一頭の積載量は約百五十ミナ、驢馬は六十ミナ。総積載量は約二千二百八十ミナ。ここから水と食料と天幕の重量を引くと——」
暗算した。数字が頭の中で組み上がっていく。父に鍛えられた技だ。商談の席で帳面を覗いている暇はない。数字は頭の中に置く。
「交易品に割ける積載量は、およそ千四百ミナ。ただし現在の水の在庫は十日分程度しかない。十五日分に補充するなら追加で約三百リタルの水が必要で、革袋の重量を含めると二百ミナを食います。交易品の余裕は千二百ミナまで減る」
ハダドの目が見開かれた。
「……今のを暗算で出したのか」
「商人の基本です」
「基本か」
ハダドが低く笑った。厳しい顔の中に、初めて別の色が浮かんだ。感心——いや、確認だ。この若造が口だけの坊ちゃんかどうかを、今の暗算で確かめたのだ。そして答えが出た。
「数字が読める若造か」
「数字と人の顔が読めます」
「ほう。じゃあ俺の顔には何が書いてある」
挑戦だった。試されている。だが商人は試されることを恐れない。値踏みは取引の一部だ。
「出発を急ぎたいが踏み切れない。季節の窓は十五日。だが隊長不在で舵取りに不安がある。——そして今、目の前の若造が使えるかどうかを値踏みしている」
沈黙が落ちた。
ハダドがアシュタルを見つめていた。厳しい目。だがその奥に、認めたくないが認めざるを得ないものがある。この若造は、数字だけでなく人の顔も読める。それは——砂漠で必要な力だ。
「タグムの名前だけじゃ信用しない」
ハダドが言った。声に厳しさが残っているが、拒絶の色はない。
「だが——数字を出せる人間は、砂漠で必要だ」
手を差し出された。
握った。ハダドの掌は硬く、乾いていた。砂漠を何度も越えた手だ。砂と日差しに鍛えられた手だ。
「条件付きだ。しばらく様子を見る。使えなければ途中で降ろす」
「充分です」
息をついた。帳面を閉じかけた時、ハダドが付け加えた。
「護衛というのは? 紹介してもらおうか」
天幕の入口から、外の広場が見えた。赤い髪が風になびいている。腕を組み、傭兵たちの賽遊びを眺めている女の姿。
岩を砕く女を、どう紹介するか。
帳面を開き直した。交渉は、まだ終わっていない。




