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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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商隊の噂

 港町の市場は、海と砂漠の匂いが混ざっていた。


 潮の匂いと、砂の匂い。香辛料の粉末が鼻をくすぐり、なめした革の獣臭が風に乗る。異国の言葉が四方から飛び交い、値引き交渉の怒鳴り声と、荷車の車輪が石畳を擦る音が重なっている。色とりどりの染め布が天幕から垂れ下がり、陽光を浴びて赤や青や金色に輝いていた。


 ウガルの港とは空気が違う。ウガルは海の街だ。ここは海と砂漠の境目の街。二つの世界が接する場所には、必ず商機がある。それは同時に、二つの世界の危険も集まるということだ。父が教えてくれたことの一つだった。


 アシュタルは市場を歩きながら、耳を使っていた。


 商人の情報収集は足と耳だ。帳面を広げて質問するのは最後の手段で、まずは雑踏の中に混ざり、会話の断片を拾う。酒場の隅で交わされる密談。荷揚げ場で怒鳴り合う荷主と船頭。屋台の老婆が隣の客と交わす世間話。その全てが情報だ。一つ一つは欠片に過ぎないが、十の欠片を集めれば絵が見える。


 干し肉の屋台で串を買った。肉は硬いが塩がよく効いている。噛みながら、隣の客——日焼けした中年の男に声をかけた。


「この町から南に行く商隊があると聞いたんですが」


「ああ、あるよ。ハダドの商隊だ」


 男は串をかじりながら答えた。気さくな口調だ。旅人同士の情報交換は砂漠の街では日常だ。互いの情報が、互いの命を守ることがある。


「荷駄二十頭に護衛の傭兵が十人。規模はそこそこだが、まともな隊だよ。隊長のイルクは砂漠を二十回は越えた男だ。道の水場と盗賊の縄張りを全部頭に入れてる。ただ——」


 男が声を落とした。


「その隊長が倒れた。急病だ。もう十日以上出発が遅れてる」


 十日。大きい数字だ。


「季節の窓がありますよね」


 男が目を見開いた。若造にしては砂漠のことを知っている、という顔だ。港町で仕入れた知識だが、知っているという事実が信頼を生む。情報は、持っていることを見せるだけで通貨になる。


「そうだ。砂漠を越えられるのは、乾季の終わりから雨季の始まりまでの約二十日間だ。その間は砂嵐が収まる。窓を逃すと、次は三ヶ月待ちだ」


「窓はあとどれくらい?」


「十五日。——つまり、今すぐ出ても砂漠の向こうに着くかどうか、際どいってことだ」


 帳面に書き込んだ。季節の窓——残り十五日。商隊の遅延——十日以上。出発しなければ窓が閉じる。三ヶ月の遅延は致命的だ。弟の呪いは進行している。三ヶ月も待てない。


 礼を言い、屋台を離れた。


 次は酒場だ。薄暗い店内に入ると、杯を前にした傭兵風の男たちが暇を持て余していた。仕事がない傭兵は金を使う。金を使う者の口は軽い。


 杯を奢り、話を聞いた。酒は安い地酒だが、砂漠の街では水より酒のほうが安全なこともある。


 隊長イルクは出発三日前に熱病で倒れた。副隊長のハダドが指揮を引き継いだものの、ハダドは実務には強いが全体の舵取りには慣れていない。荷物の管理と水の計算は完璧にこなすが、商人たちの意見をまとめ、傭兵たちに指示を出し、行程全体の判断を下すとなると——経験が足りない。商隊は焦っていた。窓が閉じれば、三ヶ月分の滞在費がかかる。荷物の劣化もある。生鮮品を扱う商人は日を追うごとに顔色が悪くなっている。だが準備不足で砂漠に入れば死ぬ。


 焦りと不安。商隊は今、二つの恐怖に挟まれている。


 逆に言えば——誰かがその恐怖を解消できれば、商隊は喜んで受け入れる。


 帳面を閉じた。情報は揃った。


 宿に戻ると、アナトが窓辺に座っていた。外を眺めている。正確には、砂漠の方角を見ている。この女神は常にバアルの方角を見る。磁石が北を指すように。その横顔に浮かぶのは、焦りか、それとも別の何かか。


「情報が取れました」


 アシュタルは帳面を開き、アナトの前に立った。


「砂漠越えの商隊があります。規模は荷駄二十頭、護衛十人。ただし隊長が急病で倒れて、出発が止まっている」


 アナトが視線を砂漠から室内に戻した。金色の目が帳面の文字に落ちる。読めるのかは分からない。人間の文字を気にする神ではない。


「それで?」


「商隊にはリーダーがいない。僕たちには砂漠を越える手段がない。つまり——双方に足りないものがある」


 帳面の上で、二つの項目を指で示した。


「完璧な取引条件です」


 アナトの眉がひそまった。


「群れに混ざるのか」


「群れじゃなくて商隊です」


 アシュタルは帳面を閉じた。


「商人は群れません。連携するんです。群れは弱いから集まる。商隊は強くなるために組む。目的が違います」


「……言葉遊びだな」


「商人にとって言葉は武器です。遊びじゃありません」


 アナトが鼻を鳴らした。だが否定はしなかった。否定しないのは、アナトなりの承認だ。この旅で学んだことの一つだった。怒鳴らない。斬りかからない。鼻を鳴らすだけ。それはアナトにとっての「好きにしろ」だ。


 日が傾いていた。


 宿を出て、夕暮れの港町を歩いた。石畳の道を南へ向かう。商隊の野営地は港町の南の外れにあると聞いた。夕日が石壁を橙色に染め、影が長く伸びている。風が止み、日中の熱気が街路に籠っていた。


「……また交渉か」


 半歩後ろを歩くアナトが呟いた。


「お前の旅は取引しかないのか」


 アシュタルは振り返った。夕陽が赤い髪を燃えるように照らしている。赤い髪に橙色の光が重なり、まるで頭の周りに炎を纏っているように見えた。


「商人の旅は全部が取引ですよ」


 笑った。


「息を吸うのだって、空気との取引です。吐くものがなくなったら、吸えなくなる」


 アナトが何か言いかけて、口を閉じた。呆れたのか、感心したのかは分からない。たぶん呆れたのだろう。だが足は止まらなかった。半歩後ろを、変わらない間隔で歩いている。


 夕暮れの道を二人で歩く。影が長く伸びて、砂漠の方角を指していた。


 商隊のリーダーが倒れている。十八歳の若造が、砂漠越えの商隊をまとめられるか。ハダドは厳しい目で見るだろう。傭兵たちは鼻で笑うだろう。商人たちは年齢を見て不安がるだろう。


 だが、足りないものを埋める者は重宝される。それが十八歳だろうが八十歳だろうが。商売とは、需要と供給だ。


 帳面を懐にしまい、前を向いた。


 まずは、席につく。交渉はそこからだ。


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