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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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砂漠の門

 石畳が途切れた。


 港町の外縁を抜けた瞬間、足元の感触が変わった。固い石から、乾いた砂へ。靴底に伝わる硬さが消え、一歩ごとに足が沈む。それだけのことなのに、世界がまるごと入れ替わったような感覚があった。


 目の前に、砂漠が広がっていた。


 灼熱の砂が地平線まで続いている。陽炎かげろうが立ち昇り、視界の端がゆらゆらと歪んでいた。風が吹くたびに砂粒が頬を叩く。目を細めなければまともに前が見えない。白く霞んだ空の下、かすかに交易路のわだちが砂の上に残っていた。だがその跡も、次の風が吹けば消える。砂は記憶を持たない。


 海を越えてきた。嵐を越え、神と交渉し、深淵の底を覗いた。だがこの砂の海は、それとは別の種類の威圧感を放っていた。ヤムの海には波があり、潮があり、命の気配があった。アシェラの真珠が光る水面には、冷たくとも生きた温度があった。


 この砂漠には何もない。ただ砂と熱と、乾いた風だけがある。生き物の気配すらない。空を見上げても鳥一羽飛んでいない。太陽だけが白い空の真ん中に張り付いて、容赦なく砂を焼いている。


 港町の建物の影が背中にある。振り返れば、まだ石畳の端が見えた。一歩戻れば文明に帰れる。だがその一歩を踏み出す方向は、南だ。砂漠の先。冥界の方角。バアルがいる場所。


 アシュタルは帳面を広げた。


 砂よけの外套の下で、手早く地図を確認する。港町の商人から買った砂漠の地図だ。羊皮紙に墨で描かれた簡素なもので、交易路が一本の線で記されている。北の港町から南の内陸都市まで——その距離を指で測った。


「十五日」


 声に出して確認した。


「最短でも十五日かかる。水場は途中に三箇所。ただし季節によってれるものもある」


 帳面に条件を書き出す。商人は数字で考える。感情で砂漠は越えられない。


 水——一人一日三リタル。二人で六リタル。十五日で九十リタル。革袋の容量と重さを考えると、二人で運べる量には限界がある。食料——干し肉と乾燥果実で十五日分。軽くて腐らないものに限る。パンは三日目から硬くなって食えなくなる。装備——砂よけの外套、夜間の防寒具。砂漠は昼に焼け、夜に凍える。昼夜の温度差が人を殺す。


 そして最大の問題が二つ。


 盗賊と砂嵐。


 交易路は存在する。だが交易路があるということは、交易路を狙う者もいるということだ。商人のいる場所に盗賊は集まる。蜜に群がるはえと同じだ。武装した集団でなければ安全に通れない。そして砂嵐は——人間の力ではどうにもならない。港町の商人が言っていた。砂嵐に巻かれた商隊が丸ごと消えたことがある、と。砂に埋もれ、跡形もなく。


「私が斬ればいい」


 隣に立つアナトが、腕を組んだまま言った。赤い髪が砂混じりの風になびいている。金色の瞳が砂漠を見据えていた。盗賊だろうが何だろうが、この女神の双剣にかかれば瞬きの間に片がつく。それは事実だ。ヤムの宮殿で見た戦いぶりを思い出す。あの時の彼女は、嵐そのものだった。


「盗賊はそれでいいでしょう。ですが」


 アシュタルは帳面から目を上げた。


「砂嵐は斬れますか?」


 アナトの眉がぴくりと動いた。答えなかった。答えられなかったのだ。


 砂嵐は敵ではない。意志を持たない自然の暴力だ。剣で斬れるものではないし、神力で吹き飛ばすにも限度がある。アナトの力は強大だが、それは「戦争」の力だ。戦うべき対象がなければ意味がない。砂嵐には顔がない。


「バアルがいれば」


 アナトが呟いた。視線が砂漠の彼方に向けられている。陽炎の向こう、見えない地平線のさらに先を見つめるような目だった。


「バアルがいれば、雲を呼び、風を操れた。この砂漠も——一日で越えられた」


 静かな声だった。怒りでも悲しみでもない。ただ事実を述べている。嵐の神がいれば天候は従う。雲が日差しを遮り、風が砂を鎮め、雨が渇きを癒やす。それがバアルの力だった。砂漠が砂漠であるのは、嵐の神がいないからだ。


 その力が、今はない。


 アナトの横顔を見た。風に赤い髪が流れている。その顔にあるのは——喪失だ。戦の女神が最も苦手とする感情。斬ることも砕くこともできない、ただ抱えるしかないもの。


 アシュタルは黙って聞いていた。帳面に視線を落とし、何かを書き込んだ。


 ないものを嘆く前に、代わりを探す。商人はそうやって生きてきた。仕入れ先が潰れたら別の仕入れ先を探す。航路が塞がれたら陸路を探す。バアルがいないなら——バアルなしで砂漠を越える方法を考える。それが商人だ。


 帳面に書いた。


 単独行——不可。水の問題、盗賊の問題、砂嵐の問題。全てが二人だけでは解決できない。


 では、二人でなければいい。


 顔を上げた。砂丘の上に立ち、交易路の方角を見渡した。午後の陽が砂に照り返し、目が痛い。手をかざして光を遮る。だが商人の目は光の中にも影を見つける。


 遠くに、砂煙が立っていた。


 交易路の方角から——複数の影が揺れている。荷駄にだの列。人影。天幕を載せた荷車。砂煙は南西から北東へ、つまりこちらの方角へ向かっている。規模は——遠目には分からないが、小さくはない。荷駄が十を超えている。組織だった集団だ。


 商隊だ。


 アシュタルの目が変わった。帳面を持つ手に力が入る。琥珀色の瞳に、値踏みする時の光が宿った。商人が取引先を見つけた時の目。父の目に似ていると、かつて母に言われたことがある。


「……あれは、商隊ですね」


 砂漠を越えるには仲間がいる。水を分け合い、盗賊に備え、砂嵐の時に身を寄せ合う集団が。一人では越えられない道を、集団なら越えられる。人間はそうやって砂漠と付き合ってきた。何千年も。


 そしてあの砂煙の向こうに——その集団がいる。


 帳面を閉じた。


 砂漠は広い。だが商人の目には、砂の海の向こうに道が見える。道がないなら作る。道具がないなら借りる。仲間がいないなら——見つける。


「交渉の余地は、ある」


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