砂漠への針路
夜が明けた。
海の向こうに陸地が見えていた。砂色の大地。乾いた風が潮の匂いを押し退けて、砂と石の匂いを運んでくる。水平線に張りついていた薄い線が、近づくにつれて形を成していく。港。家屋。波止場の杭。干された漁網。人の姿。
ヤムの海域を抜けた。
アシュタルは帆を操りながら、昨夜のアシェラの言葉を反芻していた。
バアルは自分から降りていった。
何度繰り返しても、この一文の重さは変わらなかった。むしろ反芻するたびに重くなる。商人の頭が情報を咀嚼するたびに、その意味が広がっていく。
港が近づいてくる。小さな港だった。ウガルの港とは比べものにならない。波止場は五つ。停泊している船は十に満たない。だが——活気はあった。人の声が聞こえる。荷を運ぶ男たちの掛け声。水を売る少年の甲高い声。驢馬の鳴き声。鉄を打つ音。干し魚の匂い。
砂漠越えの商隊が出発する拠点だ。ここから南に向かう者たちが、水と食料を補給し、案内人を雇い、隊を組む。砂漠の入口。海と陸の境界。水の世界から、砂の世界へ。
船を波止場に寄せ、杭に綱を結んだ。手際よく。港の作業は体が覚えている。
陸に上がった。足元が砂だった。波止場の板を踏み、砂の地面に降りる。海の揺れに慣れた体が、動かない地面に一瞬だけ戸惑う。足裏が固い地面を確かめるように踏みしめた。
アナトが半歩遅れて降りた。赤い髪が乾いた風に揺れる。表情は——いつも通りだった。硬く、鋭く、隙がない。昨夜の「迷い」は、朝日と共に鎧の奥に収められたようだった。
だがアシュタルは知っている。収めたのであって、消えたのではない。鎧の内側で、迷いはまだ生きている。
波止場の端に腰を下ろし、帳面を開いた。情報を整理する。商人はまず数字を揃える。感情は後だ。
バアルの痕跡——南。砂漠を越えた先に冥界がある。二年前の夏の終わり、バアルはこの海域を南へ横切り、砂漠を越え、冥界へ向かった。自らの意志で。ヤムとの通行権は確保済み。アシェラとの取引も成立。三人の息子——ラシャプ(南の砂漠・カデシュ付近)、ホロン(北のレバノン山脈)、シャレム(内陸・エマル)。旅の途中で情報を集める。
次の目標。砂漠越え。
帳面を閉じ、広場に向かった。
港町の広場は小さかったが、商隊の出発地らしく物資が溢れていた。水袋、干し肉、穀物の袋、砂漠用の外套。天幕の布。革紐。日除けの笠。商人の目で見れば、品質は中の下だが価格は高い。独占市場だ。砂漠に入る前にここで買うしかない。足元を見た商売。だが文句は言えない。需要と供給の原理には逆らえない。
水売りの少年から水袋を二つ買い、干し肉を一束手に入れた。値段は——まあ、想定の範囲内だ。
歩きながら、考えた。
バアルが自分から冥界に向かった。アシェラの証言が正しいなら、バアルは「囚われている」のではなく「自ら留まっている」。朝の情報と夜の情報が一致した。「閉じ込められているわけじゃない。あの子は自分の意志で留まっている」。あの時は断片的な言葉だった。今は目撃証言がある。バアルが自分の足で、自分の意志で、冥界に向かう姿を、アシェラは海の向こうから見ていた。
ならば——救出ではなく、説得が必要だ。連れ戻すのではなく、戻る理由を見つけなければならない。力ずくで引き戻しても、バアルがまた自ら戻るなら意味がない。
だが——なぜ。
帳面に問いを書いた。「バアルはなぜ自ら冥界に留まるのか?」
答えは、まだない。問いだけが増えていく。
「アナト」
声をかけた。広場の端、石壁に寄りかかっているアナトに。振り返らなかったが、足が組み替えられた。聞いている。
「昨夜の件。バアルが自分から冥界に向かったという話——どう思いますか」
間があった。砂を踏む往来の音。水売りの少年の声。驢馬の鳴き声。その全てが遠くなるような、長い間。
「ありえない」
短い答えだった。
「バアルは嵐の神だ。冥界は死の領域。嵐と死は相容れない。天を駆ける者が、自ら地の底に降りる理由がない」
口調は断定的だった。いつもの、有無を言わせない声。だが——声の温度が、断定に追いついていない。昨夜と同じだ。言葉は否定しているが、感情が追いついていない。
迷いがある。口が「ありえない」と言い、心が「本当にそうか」と問い返している。アシュタルの耳には、その内側の問いかけが聞こえた。
見て見ぬふりをした。
今は追及しない。
商人の勘だ。今押せば、相手は閉じる。追い詰められた者は壁を作る。アナトは戦神だ。壁を作ったら、それは城壁になる。攻城兵器でも破れない、千年の戦を生き延びた女神の壁が立つ。二度と開かない。
待てばいい。答えは、相手が自分から語る時に最も正確だ。値踏みと同じだ。相手が自分で値段をつけた時、その値段が最も信頼できる。急いて訊き出した言葉は、相手の本心ではない。防衛の言葉だ。待てば——いずれ、本当の言葉が来る。
帳面を閉じた。
「まずは砂漠を越えましょう。答えはその先にある」
アナトが振り返った。金色の目がアシュタルを見た。一瞬だけ——何かを言いかけた。唇がわずかに動いた。言葉の形を作りかけて、崩れた。飲み込んだのだ。まだ言葉にできない何かを。
代わりに、小さく頷いた。
広場を抜け、港町の南の門に向かった。門は石造りで、砂に半ば埋もれていた。門番はいない。砂漠に門番は要らない。入るのは自由だ。出られるかどうかは、砂漠が決める。
門の向こうに、砂漠が広がっていた。
見渡す限りの砂。黄色と茶色の大地が、陽炎に揺れている。乾いた風が砂を巻き上げ、低く唸っている。空は抜けるように青く、雲ひとつない。太陽が白い。海の上で見た太陽とは別の太陽のように、容赦なく照りつけていた。
あの砂の向こうに、冥界がある。バアルが自ら降りていった場所がある。
未解決の問いが頭の中に並んでいた。バアルはなぜ冥界に留まるのか。ヤムが求めた「決着」とは何か。アシェラの三人の息子——ラシャプ、ホロン、シャレム。印を刻んだ者の正体。答えの出ない問いばかりだ。
だが商人は問いを恐れない。問いは未回収の債権だ。いつか必ず回収する。帳面に記録してある。忘れない。
一歩を踏み出した。
砂が靴の下で鳴った。乾いた音だった。海の湿った空気が、一歩ごとに遠くなる。背中に海風を感じる。前には砂の風。二つの世界の境界を、今、越えた。
アナトが続いた。
半歩遅れて。
その半歩の距離が——以前より、わずかに近かった。




