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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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バアルの痕跡

 アシェラの表情が変わった。


 微笑みが消えたわけではない。だが質が違う。世間話の柔らかさが引き、代わりに——真剣さが浮かんだ。海緑色の目の奥が深くなる。海の浅瀬から、一気に深海に潜ったような変化だった。波紋を作っていた指が水面を離れ、膝の上で組まれる。


「バアルは最後にこの海域を通ったわ」


 静かな声だった。波の音に溶けそうなほど静かな。


「いつ頃ですか」


「人間の暦で——もう二年以上前になるかしら。季節は夏の終わりだったわ。海が荒れていた。嵐の季節の最後の嵐が来ていて——あの子はその嵐の中を歩いていた」


 嵐の中を歩く。嵐神あらしがみにとって嵐は障害ではない。道だ。風をまとい、雷を従え、雨を掻き分けて進む。嵐そのものが、バアルの足元に敷かれた道になる。


「南に向かっていったわ。この海域を横切って、砂漠の方角へ」


「南——砂漠の先に、何があるのですか」


 アシェラが一瞬だけ黙った。波紋を作っていた指が止まる。海面が完全に凪いだ。鏡のように。星を映す鏡。その鏡の中に——深淵がある。


「冥界よ」


 その一言が、夜の海に落ちた。石が水面に落ちるように。静かに、だが深く。波紋が広がる。


「地の底に降りていったわ。砂漠を越えた先の——裂け目から。大地が口を開けるように割れている場所があるの。そこが冥界への入口」


 冥界。モトの領域。死の国。バアルの行方は——冥界。


 アシュタルは帳面に書いた。バアルの最終目撃——二年前、夏の終わり。ヤムの海域を南へ横切り、砂漠を越え、冥界へ。文字が並ぶ。事実が積み上がる。


 だが頭の中では、別の計算が動いていた。冥界。モトの領域に行くということは、バアルはモトと対峙するために行ったのか。あるいは——。


「でもね」


 アシェラの声が、一段低くなった。声の中に——ためらいがあった。言うべきか。言わざるべきか。その判断を、まさに今、下そうとしている声だった。


「あの子は——戦いに負けたのではないわ」


 帳面の上で筆が止まった。


「自分から降りていった」


 空気が凍った。


 比喩ではない。夜の海の上の空気が、実際に冷えた。アシュタルの肌が粟立あわだつ。背筋に冷たいものが走った。


 船首で、アナトの体が動いた。振り返った。金色の目が大きく開いている。唇が薄く開き、言葉を探しているが、見つからない。


「自分から?」


 アナトの声だった。硬い。乾いている。砂漠の砂のように水気みずけがない。


「そうよ」


 アシェラが頷いた。静かに。重く。


「あたしはこの海域から見ていたわ。バアルが海を渡る姿を。——嵐の中にいたから、普通の目では見えなかったでしょうね。でもあたしには見えた。海は全て見ている。あの子の足取りを、波が覚えている」


 アシェラが水面に手をかざした。海面がわずかに光った。記憶を呼び起こすように。


「追われていたのではない。逃げていたのでもない。振り返りもしなかった。自分の足で、自分の意志で、冥界の方角へ向かっていた。——まるで、そこに行くと最初から決めていたように」


「ありえない」


 アナトが立ち上がった。船が揺れた。アシェラがいても、戦神の感情は海を揺らす。


「バアルが自分から冥界に行く理由がない。モトは兄の敵だ。冥界はあの者の領域だ。嵐の神が自ら死の国に足を踏み入れるなど——ありえない。何かの間違いだ」


 声が震えていた。怒りか。恐怖か。混乱か。あるいはそのどれでもない、もっと複雑な何か。兄を知っているがゆえの、苦い理解。バアルならば——あるいは——そういうことをするかもしれない、という、認めたくない直感。


「あたしもそう思いたいわ、アナト」


 アシェラの目がアナトを見た。母が娘を見る目。心配と、悲しみと、何かを伝えたいのに伝えきれないもどかしさが混じった目。


「でも——あの子の背中は、追い詰められた者の背中ではなかったわ。母親は、子の背中を見れば分かるのよ。逃げている背中か。覚悟を決めた背中か」


 沈黙が落ちた。


 波の音だけが聞こえる。星が海面に映り、揺れている。世界は静かだった。静かすぎた。


 アナトの手が拳を作っていた。白くなるほど強く握り締めている。腕の紋様がかすかに赤く明滅した。神力が感情に反応している。怒りか。悲しみか。あるいは——。


「理由は——」


 アナトの声が途切れた。喉に何かが詰まったように。


「理由はあたしも知らないわ。本当よ。あの子が何を考えて冥界に向かったのか——あたしには分からなかった。分からなかった、のよ」


 最後の一言に、母の無力さが滲んでいた。七十の子を産み、誰よりも広い目を持ち——それでも、息子の心の中までは見えない。


 アシュタルは帳面を見下ろした。


 記録する手が、止まっていた。


 「バアルが自分から降りていった」。この一行を書くべきだ。商人は全てを記録する。だが——筆が動かない。この情報の重さが、筆を止めている。言葉にすれば事実になる。記録すれば消せなくなる。


 だが。


 商人は事実から目を逸らさない。都合の悪い数字も記録する。赤字も記録する。それが帳面の意味だ。


 筆を動かした。


 書いた。「バアルは自らの意志で冥界に向かった(アシェラ証言。目撃)」。事実だけを。感情は記録しない。感情は帳面の外で処理する。


 アシェラが立ち上がった。船が傾かない。海の女神に重さはない。


「伝えられることは、これで全部よ」


 嘘だ。


 アシュタルの勘が告げた。全部ではない。アシェラはまだ何か知っている。だが——今はこれ以上引き出せない。追加の対価が必要だ。それに、今の情報だけでも十分に重い。消化するのに時間がかかる。


「……ありがとうございます。十分です」


 アシェラが船縁を越えた。海の上に立った。銀緑色の髪が夜風に揺れる。真珠の装飾品が、星明かりを拾って瞬く。


 振り返った。


「また会えるといいわね、商人の子」


「ええ。三人の消息、必ず探します」


「頼んだわよ」


 アシェラの体が——海に溶けた。足元から水になっていく。銀緑色の髪が海水に混じり、真珠の光が波の中に散る。最後に残ったのは微笑みだった。それも、波に飲まれて消えた。


 後には穏やかな海面と、潮の匂いだけが残った。


 重い沈黙が落ちた。


 アナトが船首に戻っていた。背を向けて座っている。肩が——かすかに、震えているように見えた。だが暗くて確かめようがない。確かめるべきでもない。今は。


 アシュタルは帳面を閉じた。


 星が海に映っている。上も下も星だ。だがその星の下に、冥界がある。死の国がある。バアルが——自ら望んで沈んだ場所がある。


 アナトの横顔に、初めて見る種類の表情が浮かんでいた。怒りでも、苛立ちでもない。


 迷い、だった。


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