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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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三つの名前

 アシェラが三本の指を立てた。


 指先から光がしたたった。真珠のような淡い光が、水面に落ちる。波紋が広がり——文字が浮かんだ。海面に、光の文字だ。古い文字。アシュタルが粘土板で見たことのある、神々の言語。水面が粘土板の代わりになり、光がくさびの代わりになっている。


 三つの名前が、星空の下の海面に浮かんでいた。揺らめく光の文字が、波に合わせてゆっくりと呼吸するように瞬いている。


「書き留めて」


 アシュタルは帳面を構えた。光の文字を読む。神々の言語は断片的にしか理解できないが、名前ならば読める。音を拾い、人間の文字に置き換えて書き留めた。正確に。一画も漏らさず。


「一人目。ラシャプ」


 アシェラが最初の名を口にした。声に、少しだけ力がこもった。


「疫病と火の神。気性が荒いけれど、根は真っ直ぐな子よ。まっすぐすぎて損をする子。——最後に見たのは南の砂漠の奥。カデシュの廃墟はいきょの近くだったわ。もう百年以上、消息が途絶えている」


 南の砂漠。カデシュ。アシュタルの頭の中で地図が広がった。商人の地図だ。交易路と中継地と商隊の経路で構成された、金の流れの地図。カデシュならば、ここから南に向かう商隊が通る。廃墟と呼ばれているが、周辺にはまだ小さな集落がある。羊飼いと鍛冶かじ屋の村だ。隊商路からは外れるが、砂漠の案内人を雇えば立ち寄れない距離ではない。


 帳面に書いた。ラシャプ。疫病と火。カデシュ廃墟付近。百年以上消息なし。


「二人目。ホロン」


「癒しの神。穏やかな子なの。花が好きで、傷ついた獣を治してやるような子。戦を嫌って、山岳地帯に隠れたわ。最後の目撃は北のレバノン山脈のどこか。冬になると雪が積もる場所よ」


 北方。レバノン山脈。毛皮商の圏内だ。父の商会と取引のある北方の商人が何人かいる。帳面をる。ある。北方毛皮商ギルドの取引先リスト。名前。拠点。得意先。直接は行けなくとも、伝手つてを辿れば情報は集められる。山の民は閉鎖的だが、商売の話なら扉が開く。どこでもそうだ。


 帳面に書いた。ホロン。癒し。レバノン山脈。具体的な場所は不明。


「三人目。シャレム」


 アシェラの声が、わずかに柔らかくなった。三人の中で、この名前を言う時だけ、声の色が違った。


黄昏たそがれの神。夕暮れを司る、静かな子よ。口数が少なくて、何を考えているかよく分からない子。内陸の交易都市——エマルの辺りにいたはず。あの子は人間に紛れるのが上手いの。見つけるのが一番難しいかもしれないわね」


 エマル。内陸の交易都市。ユーフラテス川沿いの要衝だ。商人なら名前を知らぬ者はいない。東西南北の交易路が交差する場所で、あらゆる国の商人が集まる。人の出入りが激しい。人間に紛れるなら、確かに最適の場所だ。人が多すぎて、一人の神が埋もれてしまう。


 帳面に書いた。シャレム。黄昏。エマル付近。人間に紛れている可能性。発見困難。


 三人分の記録を見返した。名前。性質。最後の目撃場所。目撃時期。特徴。一字一句、書き漏らしはない。


「丁寧ねえ」


 アシェラが帳面を覗き込んだ。海緑色の目が、人間の文字を追っている。


「記録を取る人間は珍しいわ」


「商人の基本です。頭の記憶は消えますが、紙の記録は残ります。曖昧な記憶で商売をすれば、数字が狂い、信用が崩れる」


「神は記録を取らないの。記憶が消えないから。何千年経っても、あの子たちの顔を忘れることはないわ。ラシャプが初めて火を灯した日のことも。ホロンが泣いていた夜のことも。シャレムが——」


 言葉が途切れた。一瞬だけ。すぐに続いた。


「全部覚えているわ。忘れる必要がないの」


「それは——素晴らしいことです」


「そうかしら。でもね」


 アシェラが首を傾げた。何かを初めて考えるような顔だった。


「記録には記録の良さがあるわね。忘れない、ではなく——伝えられる」


「そうです。記録は自分のためだけではなく、他人に渡すためにもある。僕がこの帳面を誰かに預ければ、その人も同じ情報を手にできます。記録は記憶と違って、人から人へ渡せる」


「なるほど……。神は、記憶を他人に渡せないのよ。一人の神の記憶は、その神だけのもの。共有できない。あたしがラシャプの笑顔を覚えていても、それをアナトに見せることはできない」


 共有できない記憶。それは——孤独だ。何千年分の記憶を抱えて、誰にも渡せない。忘れないことは祝福ではない。共有できないなら、それはおりだ。豊かな檻。美しい檻。だが、檻は檻だ。


 アシュタルは帳面の余白に小さく書き加えた。「神は記録を取らない。記憶の共有不可」。些細な情報に見えるが、商人の勘がこれを重要だと告げていた。いずれ使う時が来る。


「では、約束します」


 帳面を閉じ、アシェラに向き直った。


「旅の途中でラシャプ、ホロン、シャレムの消息に関する情報があれば、必ずお伝えします。直接お会いできなくとも、海に触れる場所で声をかければ届きますか」


「ええ。海水に手を浸して、あたしの名を呼んでくれれば届くわ。世界中どこの海でも。川でもいいわよ、海に繋がっていれば」


「了解しました」


 アシュタルが右手を差し出した。


 商人の握手。契約の成立を示す、最も古い形式のひとつ。印章でも粘土板でもない。手と手だ。ヤムとの取引は印章だった。公的な契約。権利と義務を文書で定めたもの。だがアシェラとの約束は——もっと個人的なものだった。母が子の友人に頼みごとをする、その延長にあるような約束。


 アシェラが手を伸ばした。


 握った。


 海水の温度だった。温かく、深い。てのひらが柔らかい。だがその奥に、海の底のような圧がある。数え切れない波を生み出してきた手だ。七十の命を送り出してきた手だ。


「約束ね、商人の子」


「約束です」


 手を離した。アシュタルの掌に、潮の匂いが残っていた。


 アシェラが微笑んだ。今度の微笑みには——感謝の色があった。情報屋の仮面でも、計算高い外交官の顔でもない。母親が「ありがとう」と言いたいのに言葉にできない時の、あの微笑み。


「では——約束の分」


 表情が切り替わった。微笑みの温度が下がる。世間話から、本題へ。声の中の母親が引っ込み、情報屋が前に出た。


「バアルのことを教えてあげるわ」


 船首で、アナトが身を乗り出した。目を開いていた。金色の瞳が、星明かりの中で鋭く光っている。刃物のような光だった。


 帳面を開いた。新しいページ。筆記具を構えた。


 旅の目的に直結する情報が——ようやく手に入る。


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