海の母
夜明け前に、姿が現れた。
アシュタルは船尾で仮眠を取っていた。航行の当番はアナトに任せている。神は眠らない。便利な体だ。
目が覚めたのは、潮の匂いが変わったからだった。ヤムの海域の塩辛い匂いとは違う。もっと深い——古い匂い。水そのものが持つ、太古の記憶のような匂い。
体を起こした。
船の傍に、女性が立っていた。
海の上に。
波の上に、素足で立っている。足首まで海水に浸かっているが、沈まない。波が彼女の足元だけ穏やかで、小さな丸い鏡のような凪を作っている。
豊かな体躯の女性だった。背は高くないが、存在が大きい。そうとしか言えなかった。目の前にいる人間の大きさと、存在から放たれる気配の大きさが一致しない。小さな器に海が入っている。そんな印象だった。
銀緑色の長い髪が、風もないのにゆったりと揺れている。海藻のように。波のように。髪の間に真珠が絡まり、微かに光っていた。昨日、波の中で見た光と同じだ。
瞳は海緑色。穏やかだった。だが、穏やかな海がどこまでも深いように、その目の奥にも底が見えなかった。
微笑んでいた。母親が寝起きの子供を見るような、あの種類の微笑み。
「おはよう、商人の子。よく眠れた?」
アシュタルは帳面を探した。腰袋の中にある。手に取った。記録する。今の時刻。場所。目の前の存在の外見的特徴。全て。
「おかげさまで」
「あら、礼儀正しいわね。寝起きなのに」
船首から足音がした。アナトだ。
赤い髪の女神が船首から歩いてきた。剣は——抜いていない。だが柄に手をかけている。金色の目が、海の上に立つ女性を射抜くように見つめていた。
そしてアナトが口を開いた。
「アシェラ」
名前だった。昨日は口にしなかった名を、今朝は口にした。
「——エルの妻」
空気が変わった。
エル。
創造神。最高神。全ての神の上に立つ存在。隠居したとされるが、アシュタルの帳面の最後の行に書かれた名——「印を刻んだのは誰か」という問いの、最有力の答え。
その、妻。
アシェラと呼ばれた女神は、にこりと笑った。アナトの剣呑な声に動じる様子は微塵もなかった。
「あら、そんなに固くならないで、アナト。——少し穏やかになったわね、あなた。以前会った時はもっと棘があったのに」
アナトの眉がぴくりと動いた。
「変わっていない」
「変わったわよ。あたしの目は誤魔化せないの。母親の目はね」
母親。
アシュタルは帳面に書き込んだ。アシェラ。エルの妻。海の母。神々の母。
アシェラの海緑色の目がアシュタルに向いた。
「書いているわね。何を?」
「取引の記録です」
「あら、まだ何も取引していないわよ」
「取引の前に相手の情報を記録するのが、商人の基本です」
アシェラが声を出して笑った。波が揺れた。
「面白い子ねえ。——ねえ、上がってもいい? 立ち話は足が疲れるのよ」
「どうぞ」
アシェラが船に上がった。軽やかに。船は傾かなかった。船の中央に腰を下ろし、裾を整えた。
「さて」
アシェラの声が変わった。微笑みはそのままだが、声の奥にある温度が一段下がった。世間話から、本題へ。商人の耳にはその切り替えが聞こえる。
「あなたたち、バアルを探しているわね」
「はい」
「ヤムの海域を通ったのも、その先にある手がかりを追っているから」
「そうです」
「真面目ねえ。——バアルのこと、少し話してあげる。ただし」
指を一本立てた。
真珠の指輪が光った。
「情報は無料じゃないのよ。あたしにも何かちょうだいな」
来た。
対価の要求。想定通りだ。神との取引には必ず条件がつく。ヤムとの交渉で学んだ原則。
「何をお求めですか」
「そうねえ」
アシェラが首を傾げた。考えているようにも、考えるふりをしているようにも見えた。
「あなたの話を聞かせて。あなたが何を見て、何を考えて、ここまで来たのか。旅の話。——あたし、人間の話を聞くのが好きなのよ。神の話はもう何千年も聞き飽きたから」
旅の話。情報の対価が、情報。
こちらの手の内が明かされる。だが——全てを話す必要はない。何を話し何を話さないかを選ぶのは、こちらの権利だ。そしてアシェラが何に反応するかを観察すれば、逆にアシェラの関心の在処が分かる。
「いいですよ」
帳面を開いた。
「どこからお話ししましょうか」
アシェラが微笑んだ。海緑色の目の奥で、何かが光った。計算だ。この女神は微笑みの裏で常に計算している。だがそれは悪意ではない。情報を扱う者の習性だ。商人と同じだ。
「最初から。ウガルの港から」
アシュタルは話し始めた。
一族のこと。モトの呪い。印のこと。アナトとの出会い。旅の始まり。バアルの痕跡。砂漠。ヤムの宮殿。——話しながら、アシェラの反応を見ていた。何に頷き、何に目を細め、何に沈黙するか。
アシェラは静かに聞いていた。時折「そう」「なるほどね」と相槌を打ちながら。穏やかな表情は崩れない。だが——一箇所だけ、反応が変わった場面があった。
アシュタルが第六十話の夜、焚き火の前でアナトに「印を刻んだのは誰か」と問うた話をした時。
アシェラの目が、一瞬だけ細くなった。微笑みは消えなかった。だが目の奥の光が変わった。
知っている。
この女神は、印を刻んだ者を知っている。
アシュタルはそれを帳面に記録しなかった。記録するそぶりを見せれば、アシェラは気づく。だが頭の中には刻んだ。
「——面白い旅ねえ」
話し終えると、アシェラがゆっくりと言った。
「商人の子。あなた、神を相手に値踏みするのね。それも、自分が値踏みされていると分かった上で」
「お互い様です」
「あら。——本当に、面白い子」
アシェラが立ち上がった。船が揺れなかった。
「約束通り、少しだけ教えてあげる。バアルはまだ冥界にいるわ。でも——閉じ込められているわけじゃない。あの子は自分の意志で留まっている。理由は、あたしにも分からない」
自分の意志で。
アナトの目が揺れた。金色の瞳の中に、複雑な感情が走った。怒りか。悲しみか。あるいは——兄を知っているがゆえの、苦い理解か。
「それだけ?」
アナトの声は硬かった。
「それだけよ。あたしが知っているのは」
嘘だ、とアシュタルの勘が言った。知っていることの全てではない。だが今はこれ以上引き出せない。追加の対価が必要だ。
「ありがとうございます。……また取引をお願いすることがあるかもしれません」
「いつでもいらっしゃいな」
アシェラが船縁を越えた。海の上に立った。銀緑色の髪が風に揺れた。
そして振り返り——アナトを見た。
微笑みの質が変わった。母親が娘を見る目だった。
「アナト」
「何だ」
「その子を大事にしなさいね」
アナトの顔が——一瞬だけ、固まった。
「何の話だ」
「何の話でもないわ。独り言よ」
アシェラが笑った。波が揺れた。
そして——海に沈んだ。沈むというより、海に溶けた。銀緑色の髪が海水に混じり、真珠の光が波の中に散った。姿が消えた。後には穏やかな海だけが残った。
沈黙が落ちた。
朝日が水平線から顔を出し始めていた。橙色の光が海を染める。
アナトは船首に戻り、背を向けたまま座った。耳の端が赤い——ように見えたのは、朝日の色だろう。たぶん。
アシュタルは帳面を開いた。
アシェラ——友好的、だが計算高い。バアルは冥界に自らの意志で留まる(要検証)。印の件に反応あり。
帳面を閉じた。
新しい情報源を得た。だが同時に、新しい計算相手も得た。アシェラは味方ではない。敵でもない。情報を売り買いする相手だ。
帳面の最後に、一行書き加えた。
新たな問い——バアルはなぜ冥界に留まるのか。
問いが増えていく。答えは追いつかない。だが商人は問いを恐れない。問いは未回収の債権だ。いつか必ず回収する。
朝日が海を金色に染めていた。アナトが船首で水平線を見つめている。
帆を整え、風を読み、船を進めた。次の門へ。




