情報の代価
夕陽が海を赤く染めていた。
血の色ではない。熟れた石榴の色だ。水平線の向こうで太陽が沈みかけ、海面に長い光の帯を引いている。波が揺れるたびに光が砕け、赤と橙の欠片が散っては集まる。世界が燃えているような景色だった。だが熱はない。海風が涼しく、潮の匂いが湿っている。
アシェラが船縁に腰を掛けていた。
今朝、海に溶けるように消えた女神が、昼過ぎにまた現れた。今度は海の上に立つのではなく、最初から船に上がってきた。近所の母親が「ちょっと寄ったのよ」と言わんばかりの気安さで。裾を整え、銀緑色の髪を肩の上でゆるく纏め、波の音を聞きながら目を閉じている。
その姿だけ見れば、港町で昼寝をしている女商人と変わらない。だが——この女性が海そのものであることを、アシュタルの体は覚えていた。朝、握手した手の温度。海水の温度だった。温かいのに、底が知れない。穏やかなのに、深い。優しく手を握っておきながら、その下に大渦を隠しているような存在感。
アナトは船首で腕を組んだまま、水平線を睨んでいる。背を向けているが、耳はこちらを向いている。赤い髪が風に揺れるたびに、肩の筋肉がわずかに動く。その程度の緊張感は、アシュタルにも読める。
さて。
アシュタルは帳面を開いた。今朝の記録を見返す。アシェラ。エルの妻。海の母。友好的、だが計算高い。バアルは冥界に自らの意志で留まる(要検証)。印の件に反応あり。
情報は手に入った。だがあれは前菜だ。本題はまだだ。アシェラが再び現れたのは、世間話のためではない。向こうにもまだ話したいことがある。そしてこちらにも、聞きたいことがある。
帳面を閉じ、口を開いた。
「バアルについて、もう少しお聞きしたいことがあります」
アシェラが目を開けた。海緑色の瞳が夕陽を映して、琥珀のような色に変わっていた。瞳の奥が深い。海の色をした目で、夕陽の色を映している。二つの光が混じり合い、見たことのない色を作っていた。
「あら。——そうねえ、教えてあげたいのだけれど」
微笑んだ。穏やかな微笑み。だがその裏に、計算の歯車が回っている音をアシュタルは聞いた。商人の耳はこの音を聞き逃さない。
「ただでは、あたしも困るの」
来た。
対価の要求。朝と同じだ。だが朝は「旅の話」という軽い対価で済んだ。今度はそうはいかないだろう。情報の価値は、核心に近づくほど上がる。商売の基本だ。安い情報は安く売れる。高い情報は高く売れる。そしてアシェラが持っている情報は——おそらく、かなり高い。
だが——アシュタルは内心で安堵していた。対価を求める相手の方が、商人には扱いやすい。善意で動く者は読めない。何を考えているか分からない。だが利害で動く者は計算できる。欲しいものが分かれば、交渉ができる。交渉ができれば、商人の土俵だ。
「何をお望みですか」
「そうねえ……」
アシェラが水面に指先を浸した。波紋が広がる。指先から淡い光が漏れ、波紋が真珠色に染まった。美しい仕草だった。だがアシュタルの目は、その仕草の裏にある意図を読んでいた。間を取っている。考えを整理している。——いや、違う。答えは既に決まっている。どう切り出すかを選んでいるだけだ。
「あなた、ヤムとの交渉を覚えているでしょう」
「もちろんです」
「面白いことをしたわね、あの時。海神の宮殿で、人間が神を相手に保険の概念を説いた。略奪より商売が得だと、海の暴君を説き伏せた。——あたし、あれを見ていたのよ」
アシュタルの手が止まった。
見ていた。ヤムの宮殿で。あの交渉は海の底だった。ヤムの領域の、最も深い場所で行われた。そこをアシェラが——。
「驚いた?」
「……正直に言えば、はい」
「ヤムの海域は、ヤムのものよ。でもね、海はヤムだけのものではないの。海水が触れる場所は全て、あたしの目が届く。ヤムは力で海を支配している。あたしは——目で、海を見ているだけ」
情報収集能力。海を通じて、海に触れる全ての場所の情報を得られる。アシェラの能力の一端が見えた。——いや、見せられた。わざわざ明かしたのだ。こちらに「この相手の情報力は想像以上だ」と理解させるために。
交渉の前に、自分の手札の強さを見せる。商人もやる手だ。こちらの出方を制御するための前振り。
「……なるほど。では、俺のことはかなりご存知なわけですね」
「そうね。少なくとも、海の上で起きたことは。あなたがヤムの前で膝を震わせながら口を回していたことも。アナトが船首であなたの交渉を聞いて鼻で笑っていたことも」
船首で、アナトの肩がぴくりと動いた。
「それは光栄です。——で、対価の話ですが」
「せっかちねえ。商人は気が短いのかしら」
「商機を逃すのが怖いだけです。夕陽が沈む前に話をまとめたいのは、商人の性です」
アシェラが声を出して笑った。波が揺れた。笑い声が海に溶けていく。小さな波が船を揺らし、帳面の上の筆が転がりかけた。
「本当に面白い子」
笑いが収まると、アシェラの表情がわずかに変わった。微笑みはそのままだ。だがその奥に、別の色が混じった。翳り。母親の顔。何かを心配している母親が見せる、あの種類の表情。アシュタルは母の顔を思い出した。弟ヤリムが熱を出した夜、母が見せた顔と同じだ。
「あたしが欲しいのは、お金ではないの。もっと——個人的なこと」
声の温度が変わっていた。計算の歯車が止まり、代わりに別のものが動いている。もっと柔らかくて、もっと脆いもの。
船首で、アナトの肩がわずかに動いた。振り返りはしない。だが——何かを感じ取ったのだろう。アナトの警戒が、ほんの僅かだけ緩んだ。敵意の気配が薄れた。攻撃対象ではない。そう判断したのだ。戦神の勘は、敵意と悲嘆を嗅ぎ分ける。目の前にいるのは敵ではなく——何かに胸を痛めている母親だ。
アシュタルは帳面を閉じた。記録の時間ではない。今は、聞く時間だ。
「お聞かせください」
アシェラが夕陽を見つめた。赤い光が銀緑色の髪を染める。海の女神が、火の色を纏っていた。海と炎。相容れないものが、一つの顔の上で溶け合っている。
「あなたに、ちょっとした頼みごとがあるの」
夕陽が水平線に沈んでいく。最後の光が海面を走り、消えた。
闇が来る前の、短い静寂。
アシェラの海緑色の目が、星のように光っていた。




