真珠の声
穏やかな海だった。
ヤムの印章のおかげで、波は船底を優しく叩く程度にしか立たない。帆は風をちょうどよく受け、船は滑るように進んでいた。空は高く、雲は薄く、潮の匂いが心地よかった。
嵐の試しが嘘のような凪だ。
アシュタルは帆綱を調整しながら、帳面を膝の上に広げていた。ヤムとの取引の記録を清書している。商人は走り書きを清書する。後で読み返した時に一字の読み違いが致命傷になることを知っているからだ。
通行料率——積荷申告価額の一割。
ヤム側義務——通行料支払い船への嵐回避。
追加条件——バアルの所在に関する情報提供。
取引成立日——旅の第二十三日目。
証——帳面に刻印されたヤムの印章。
帳面を閉じた。印章のページに指で触れると、微かな冷たさが伝わってくる。海の記憶。
船首でアナトが座っている。膝を抱え、水平線を見つめている。赤い髪が海風に靡いて、夕陽の光で銅色に見えた。
ヤムとの交渉の後、アナトは口数が少なくなっていた。いつもの不機嫌な沈黙ではない。考え事をしている時の沈黙だ。何をと聞いても答えないだろう。聞かない方がいい。商人は相手が考えている時に邪魔をしない。
夕方になった。
海の色が変わった。碧から橙に、橙から金色に。水面が鏡のように凪ぎ、空と海の境界が溶けて一つになった。船は金色の世界を滑っていた。
その時だった。
声が聞こえた。
どこから、というのが分からなかった。海の底からか。水面からか。あるいは空からか。方向がない。四方から同時に、柔らかく、温かく、包み込むように——
「ねえ、そこの商人の子。少しお話ししない?」
女の声だった。
アシュタルは反射的に周囲を見回した。海の上に人影はない。船は一隻だけ。水面には自分たちの船の影しか映っていない。だが声は確かに聞こえた。すぐ近くに——いや、この声は距離がない。近いとも遠いとも言えない。海そのものが喋っているような響きだった。
ヤムの声とは全く違う。ヤムは嵐だった。力と圧を伴う声だった。この声は——波だ。穏やかに寄せては返す波の音に言葉が乗っている。
「商人の子」。
呼び方が引っかかった。商人。子。この呼び方には二つの情報がある。アシュタルの職業を知っていること。そして、相手から見てアシュタルは「子」であること。年上か。神か。あるいはその両方か。
船首でアナトが動いた。
膝を抱えていた姿勢から、一瞬で立ち上がった。剣の柄に手がかかっている。赤い髪が風もないのにふわりと広がった。神力が表層に浮かんでいる。両腕の紋様が微かに赤く光り始めた。
だが——剣は抜かなかった。
アナトの顔を見た。そこにあったのは、敵を前にした時の殺意ではなかった。もっと複雑な表情だった。驚きと、警戒と、それから——知っている者の顔。声の主を知っている。
「気をつけろ」
アナトが低い声で言った。アシュタルに向けて。視線は海を睨んだまま。
「この声は……友好的に聞こえるが、それが一番危ない」
友好的に聞こえるのが一番危ない。
商人として頷ける言葉だった。市場で最も愛想のいい商人が、最も高い値をつける。にこやかに近づいてくる相手ほど、腹の中に計算を持っている。父に最初に教わったことだ。
「知り合いですか」
「……黙れ」
拒絶ではなかった。答えたくないのだ。声の主の名を口にすることに、何かの意味があるのかもしれない。神の名を呼ぶことは、時に召喚に等しい。既に聞いた知識だ。
海が笑った。
そうとしか言えない。波が小さく揺れ、その揺れの中に笑い声の響きがあった。楽しげな、温かい笑い声。子供の悪戯を見つけた母親のような——
「あら、アナト。久しぶりね」
声が言った。
「そんなに警戒しなくてもいいのに。あたし、別にあなたたちを邪魔しに来たわけじゃないわ」
アナトの手が剣の柄を握ったまま動かない。紋様の赤い光が脈打っている。だが——抜かない。敵ではないのだ。敵ではないが、味方かどうかも分からない。その中間の、最も厄介な相手。
「……何の用だ」
アナトの声は硬かった。
「用がなければ人に声をかけちゃいけないの? 不便な世の中ねえ」
声はのんびりしていた。まるで縁側でお茶を飲みながら世間話をしているかのような温度だ。嵐の海を支配するヤムの声とは対極にある。だが——その穏やかさの奥に、底が見えない深さがある。穏やかな海は深い。商人はそれを知っている。
「ねえ、商人の子」
声がアシュタルに戻った。
「あなた、なかなかいい顔をしているわね。商人の目よ、それ。値踏みする目。あたし、そういう目は好きよ。正直だから」
アシュタルは答える前に、帳面を手に取った。記録の習慣が体を動かした。今の時刻。場所。声の特徴。アナトの反応。全てを書き留める。
「ありがとうございます。——失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか」
「あらあら、礼儀正しいのね。ヤムに啖呵を切った子と同一人物とは思えないわ」
知っている。ヤムとの交渉を知っている。この声の主は、あの嵐の中でのやり取りを見ていた——あるいは聞いていたのだ。
「名前ね。そうね——」
波が一つ、船の横を通り過ぎた。穏やかな波だった。だがその波の中に、微かに光るものがあった。真珠のような——いや、本当に真珠だ。小さな光の粒が波の中で揺れている。
「海の母と呼んでくれていいわ。みんなそう呼ぶから」
海の母。
アシュタルの頭の中で、帳面の情報が回転した。海。母。ヤムの海域にいる別の存在。アナトが知っている相手。友好的だが危険。
帳面に書いた。海の母。情報不足。要注意。
「さっきの嵐、見させてもらったわ」
声が続いた。波の音に溶け込むような、滑らかな口調。
「ヤムったら、あの子は力でしか物事を量れないのよ。でもあなた、なかなかやるわね。保険、だったかしら。損害を分け合う仕組み。——あの子には思いもよらなかったでしょうね」
「あの子」。
ヤムを「あの子」と呼ぶ。海の神を「子」扱いする存在。情報の重みが増す。
「恐れ入ります。ただの商人の知恵です」
「謙遜は商人の値下げよ。もう少し高く売りなさいな」
笑い声。波が揺れた。真珠の光が水面の下で踊っている。
アナトが口を開いた。硬い声のまま。
「何が目的だ」
「目的? あたしに目的がないと困る?」
「目的のない神はいない」
「あら、手厳しいわね。——でもそうね、一つだけ」
波が静かになった。笑い声が消え、声の温度が少し変わった。穏やかさは同じだが——その下に、何かが覗いた。水面下の深い海流のような、見えない力の気配。
「あなたたち、バアルを探しているのでしょう?」
アナトの目が鋭くなった。金色の光が、夕日の反射とは別の角度で燃えた。
「あたし、少し知っていることがあるの」
沈黙が落ちた。
船が静かに揺れている。帆が風を受けて微かに音を立てた。波の中の真珠の光が、ゆっくりと船の周りを巡っている。
バアルの情報を持っている。
アシュタルの商人の勘が反応した。腹の底が熱くなる感覚。大きな取引の匂いだ。だが同時に——アナトの言葉が頭に響いている。
友好的に聞こえるのが一番危ない。
情報には対価がある。この「海の母」が情報を無条件でくれるとは思えない。ヤムとの交渉で学んだばかりだ。神との取引には常に条件がつく。
「……それで」
アシュタルは帳面を閉じた。
「その情報の対価は、何でしょう」
波間で、真珠が光った。笑い声が——今度は声に出さず、波の揺れだけで——返ってきた。
夕日が水平線に沈みかけていた。金色の海が、少しずつ紫に染まっていく。
海の母は答えなかった。まだ。




