通行の契約
珊瑚の天井が戻ってきた。翡翠の床が足の下にあった。海水の壁が穏やかに揺れている。
ヤムの宮殿、謁見の間。
アシュタルの服はまだびしょ濡れだった。嵐の海に放り出された痕跡が全身に残っている。髪から海水が滴り、靴の中で水が音を立てた。だが帳面は無事だ。それだけで十分だった。
ヤムが玉座に座り直していた。藍色の髪から水滴が落ちることはない。この宮殿の主は最初から乾いている。碧い目がアシュタルを見ていたが、嵐の前とは色が違った。暗い紺色が薄れ、透き通った碧に戻っている。怒りが消えたのではない。興味に置き換わったのだ。
「それで」
ヤムの声は尊大だったが、先ほどの嵐の中の声とは質感が異なっていた。退屈を装う余裕がなくなっている。
「通行権の条件を詰めようか、商人」
アシュタルの口元が緩みかけた。ここだ。ここが勝負どころだ。試しに合格した。だが合格は入口にすぎない。取引の本番はこれからだ。
帳面を開いた。濡れていない。ページの端が少し波打っているが、文字は読める。嵐の前に準備しておいた数字がそこにある。
「まず通行料の設定です」
アシュタルは帳面のページを示した。
「ウガルの港を基準にします。商船一隻あたり、積荷の申告価額の一割を通行料としてヤム様にお支払いする。——これが基本の提案です」
「一割か。安いな」
「高すぎれば船が来ません。来なければ通行料は零です。一割なら、船主は迂回路を使うより安い。ヤム様の海域を通った方が速いし安全だと分かれば、船は自然と集まります」
ヤムの指が玉座の肘掛けを叩いた。
「安全だと? 俺の海がいつから安全になった」
「安全にするんです。通行料を払った船には嵐を避けていただく。それがヤム様の側の提供価値です」
ヤムの眉が上がった。
「俺に嵐を止めろと?」
「止めてください。通行料を払った船に限り」
「ナメるな」
床が震えた。海水の壁が波打つ。だが——壁のひび割れは起きなかった。揺れはすぐに収まった。怒りのポーズだ。本気の激昂ではない。商人はその差を読む。
「ナメてはいません。これは取引です」
アシュタルは帳面の数字を指でなぞった。
「ウガルの港を通過する商船は、月に平均六十隻。積荷の平均価額は銀百二十シェケル。一割で十二シェケル。月に七百二十シェケルの通行料がヤム様に入ります」
「……」
「年に換算すれば八千六百四十シェケル。これは一隻の商船を丸ごと沈めて積荷を奪うより、遥かに大きい額です。しかも毎年続く。船が増えれば額も増える。略奪は一度きりですが、通行料は永続します」
ヤムの指が止まった。肘掛けを叩く音が消えた。
数字の力だ。具体的な数字は、抽象的な提案より百倍重い。商人はそれを知っている。
「……面白い」
ヤムの碧い目が細くなった。値踏みする目だ。だがその中に、嫌悪はなかった。
「だが条件がある」
「お聞きします」
「バアルを見つけたら、このヤムに伝えろ」
声が変わった。取引の席の声ではなくなった。もっと——古い声。何千年も抱えてきた感情の、その端が覗いた声だった。
「あいつとは——決着をつけねばならん」
空気が変わった。海水の壁の揺れが深くなった。潮の匂いが強くなった。ヤムの碧い目の奥に、暗い紺色が戻りかけている。怒りではない。もっと深い何かだ。
アシュタルは答えを急がなかった。
バアルとヤムの因縁。嵐の神と海の神。かつてヤムはバアルに挑み、敗れた。その屈辱が——何千年経っても——この神の中に残っている。
安請け合いはしない。商人は、守れない約束を結ばない。
「情報をお伝えすることは約束できます」
言葉を選んだ。
「バアル様を見つけた場合、その事実をヤム様にお知らせします。ただし、その後の判断はバアル様ご自身に委ねます。バアル様の意思を、僕が勝手に約束することはできません」
ヤムの目が鋭くなった。
「俺に会いに来いとは言えんのか」
「言えません。それはバアル様の判断です。僕にできるのは橋を架けることで、橋を渡るかどうかは当人が決めます」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。ヤムの指が肘掛けの上で動いている。怒りか、逡巡か。
アシュタルは待った。沈黙は交渉の一部だ。相手が考えている間は黙る。商人の鉄則。
「……いいだろう」
ヤムが立ち上がった。
長身の体が玉座を離れ、海水の壁に向かって歩いた。藍色の髪が波のように揺れる。壁の前で立ち止まり、右手を海水に触れた。
壁が光った。
海水の中に紋様が浮かび上がった。波と渦を組み合わせた複雑な文様。ヤムの印章だ。紋様が壁から離れ、光の粒子となって宙を漂い——アシュタルの帳面に向かって流れた。
帳面が震えた。
手の中で、帳面のページが勝手に開いた。白紙のページに、海水の紋様が染み込むように刻まれていく。波と渦の文様。銀色の光が走り、文様が定着した。海水の匂いが一瞬だけ強くなり、そして消えた。
帳面のページに——ヤムの印章が刻まれていた。
銀色の痕。触れると微かに冷たい。海の記憶を閉じ込めたような紋様。
「その印を持つ者は、我が海域を自由に通行できる」
ヤムが振り返った。碧い目が、もう怒りの色を帯びていなかった。代わりにあったのは——複雑な光。興味と警戒と、認めたくない感嘆が混じった目。
「約束を果たせ、商人。俺は利息をつけて回収する主義だ」
「商人も同じです」
アシュタルは帳面を閉じた。銀色の印章が表紙越しにも微かに光っている。
取引成立。
海水の壁が割れた。出口だ。宮殿から出る道が開かれている。
アシュタルとアナトは壁の間を歩いた。足元に海水が薄く広がり、歩くたびに波紋が走った。
宮殿を出ると、海が広がっていた。
来た時と同じ、海の底から天に向かう道。だが行きとは違い、道は穏やかだった。波が静かに左右を挟み、透き通った海水の中を色とりどりの魚が泳いでいる。ヤムの印章のおかげだ。通行権を持つ者のための道。
しばらく無言で歩いた。
海底の道を歩きながら、アシュタルは帳面を開いた。ヤムとの取引の全てを記録する。通行料の料率。嵐を避ける条件。バアルに関する情報提供の約束。そして——ヤムの印章。
商人は全てを記録する。記録がなければ約束は水に流れる。
「あの記録は何の意味がある」
アナトの声が横から聞こえた。海底の道を並んで歩いている。赤い髪が海の光で紫がかって見えた。
「記録がなければ約束は忘れられます。人間も神も、都合の悪い約束は忘れたがる。帳面に書いてあれば——忘れたふりはできません」
「神の約束は帳面がなくても破らない」
「それは素晴らしいことです。でも念のため」
アナトの金色の目が横を向いた。アシュタルを見ている。何か言いたげな視線だったが、言葉にはならなかった。
代わりに、視線を前に戻して言った。
「……お前の膝、まだ震えていたぞ。嵐の中で」
「知ってます。ずっと震えてました」
「震えたまま、あれだけ喋れるのが信じられん」
「震えが止まるのを待っていたら、船が沈みます」
アナトが何か言いかけて——やめた。口を閉じ、前を向いて歩き続けた。
だがその足取りが、ほんの少し——ほんの僅かに、アシュタルに近づいていた。半歩分。気づかないほど小さな変化。だが商人は距離を測る。人と人の間合いを読むのは、商人の仕事だ。
帳面に、一行だけ書き加えた。
アナトの評価——「面白い人間」。
意味はまだ分からない。だが記録しておく。商人は全てを記録する。値がつくか分からない情報も。
海底の道が、水面に向かって上り始めた。光が強くなる。海の外の世界が近づいている。
通行権を得た。一つの門を越えた。
だがアシュタルの頭の中には、ヤムの最後の言葉がこびりついていた。
バアルと決着をつける。
バアルを見つけた先に、ヤムが待っている。一つの道が開き、一つの火種が生まれた。帳面にはその両方が記されている。
海面に出た。
夕日が海を橙色に染めていた。水平線に雲はない。穏やかな海だ。岸辺に小さな船が一隻、波に揺られて待っていた。ヤムの用意か。
アシュタルは船に乗り込み、帆を上げた。アナトが船首に座った。
風を受けて、船が動き出した。
ヤムの海域を——今度は通行権を持つ者として、渡り始めた。




