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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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通れない海

 港町は死にかけていた。


 商人の目には、それが一目で分かった。


 桟橋は大きい。三十隻は係留できる規模の立派な波止場だ。石造りの倉庫が港に沿って連なり、荷揚げ用の滑車が何基も並んでいる。かつての繁栄を物語る設備だ。だが今、桟橋に繋がれた船の半数以上が帆を畳んだまま動いていない。縄が潮風に晒されて白くなっている。長い間、解かれていない証拠だ。


 倉庫の前を通りかかると、扉が開いたまま放置されているものがあった。中を覗くと空だった。商品を置くための棚だけが、肋骨のように残っている。棚板に残る染みの形から、かつてはここに染料の壺が並んでいたことが推測できた。


「ひどいな」


 アシュタルは港の「死に具合」を値踏みしていた。波止場の活気。荷揚げの頻度。船乗りの表情。歩いている者の足取り。全てが一つの結論を指している——この港は半年で交易量が九割以上落ちた。残りの一割は沿岸沿いの近距離航行と漁だけだろう。沖に出る船はない。


 波止場の端に、船長たちが溜まっている一角があった。日陰に椅子を並べ、昼間から酒を飲みながら海を眺めている。仕事がないから酒を飲むしかない。船乗りにとって——いや、働くことを生業とする全ての者にとって、それがどれだけ屈辱的なことか。商人には痛いほど分かった。


「失礼。船を探しているんですが」


 アシュタルが声をかけると、船長たちの目がこちらを向いた。若い旅人と、赤い髪の長身の女。品定めするような視線が走り、すぐに興味を失った目に変わった。金を持った客ではなく、事情を知らない余所者。そういう判断だろう。


「どこへ行きたい」


「沖を越えて、対岸の港まで」


 沈黙が落ちた。


 船長たちが顔を見合わせた。苦笑ではない。顔色が変わったのだ。一番年かさの男が首を振った。


「無理だ」


「金なら払います。相場の倍でも——」


「金の問題じゃない」


 男の声には苛立ちと、それ以上の何かがあった。恐怖だ。


「あの海域には入れないんだ。入った船は戻ってこない。ここ半年で六隻沈んだ。乗っていた者は一人も帰ってこなかった」


 別の船長が口を挟んだ。椅子に深く座り、酒の杯を両手で包み込むようにして。


「嵐じゃないんだ。海が荒れるなら対処のしようがある。嵐なら読める。避けられる。だがあれは——海そのものが通さないんだ。船が沖に出ると、波が動く。こっちの意思とは関係なく、波が壁になる。帆に風が入らなくなる。かいを漕いでも水が動かなくなる。そして——」


 男は酒を煽った。一口で飲み干す飲み方だった。


「——飲まれる。海が舌を出すように、船ごと飲んだ。俺は岸から見ていた。晴れた日だった。凪だった。凪の海で、船が沈んだんだ。二度と見たくない」


 アシュタルは黙って聞いていた。帳面を出す気にはならなかった。この場で帳面を開けば、取材か何かと思われる。今必要なのは記録ではない。理解だ。


 船長たちの目に浮かんでいるのは、商談を断る時の目ではなかった。値段を吊り上げるための駆け引きでもない。本物の、骨の髄まで染みた恐怖だ。彼らは海で生きてきた男たちだ。嵐も知っている。遭難も知っている。それでもなお恐れているのは、彼らが知っている海とは別の何かが、あの沖合いにいるからだ。


 金で動かない。


 商人にとって、それは最も扱いにくい状況を意味していた。金で動かない相手の原動力は感情だ。そして感情の中で最も厄介なのが恐怖だった。


「ありがとうございます。無理は言いません」


 頭を下げて離れた。アナトが黙ってついてくる。


 次の手を考えた。船が出ないなら、情報を集める。商人の基本だ。取引が成立しない時は、なぜ成立しないのかを調べる。原因が分かれば、別の切り口が見えてくる。


 港町の酒場を見つけた。波止場から路地を一本入った場所にある、石壁の低い建物だ。昼だというのに客が多い。仕事のない船乗りたちが昼間から酒を飲んでいる。空気は重かった。笑い声はあるが、乾いている。


 アシュタルは杯を二つ頼み、一つをアナトに渡した。


「飲まない」


「持っているだけでいいです。酒場で手ぶらの客は目立つ。情報を集めたいなら、まず溶け込むことです」


 アナトは不機嫌そうに杯を受け取った。中身を一瞥して鼻を鳴らす。


 アシュタルは隣の卓の船乗りに声をかけた。旅人を装い、何気ない世間話から入る。天気の話。荷の話。港の景気の話。酒の味の話。商人の聞き方だ。質問をぶつけるのではなく、相手が自分から話したくなる流れを作る。話を聞いてほしい人間は、水を向ければ勝手に喋り始める。


 一人目。「無理に入った船は戻ってこなかった。五隻は確実だ。六隻目は分からん。出て行ったのは確かだが、沈んだのを見た者がいない」


 二人目。「嵐じゃないんだよ。なぎなんだ。凪の中で船が沈むんだ。そんな馬鹿な話があるか。だが事実だ。俺の従弟は三隻目に乗っていた」


 三人目。「昔はこんなことなかった。半年前——いや、もう少し前か。急に海が変わったんだ。ある朝起きたら、沖合いの色が違っていた。まるで誰かが海に鍵をかけたみたいに」


 半年前。


 卓の陰で帳面を開き、書き留めた。バアルが消えた時期。モトの使者がウガルに現れた時期。そして——海が閉じた時期。全てが同時に起きている。


 偶然ではない。バアルが消えたことで、海を抑えていた力が消えた。その空白をヤムが埋めた。力の均衡が崩れ、ヤムが海域を完全に支配下に置いた。


 そこまで整理したところで、アナトが低い声で言った。


「こんな港で足踏みしている暇はない。バアルの残滓は海の向こうにある。時間を無駄にするな」


「分かっています。でも闇雲に突っ込めば船ごと沈みます。あなたが泳げても、僕は溺れますから」


「私が守ればいい」


「海の神の領域で? あの暗い海域の中で?」


 言いかけて、やめた。アナトの目が怒りを帯びている。だがそれはアシュタルに対する怒りではなかった。力で解決したいのにできない状況への苛立ち。噛み合わない現実への焦燥。その感情は理解できる。だから今は突かない。


「もう少しだけ時間をください。情報が足りていない」


 アナトは鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。


 酒場を見回した。船乗りたちの輪の中に入り、四人目、五人目と話を重ねる。断片が集まってくる。海域の封鎖範囲。沈んだ船の位置。封鎖が始まった正確な時期。


 そのとき、五人目の船乗りが顎をしゃくった。


「本当に知りたいなら、あの爺さんに聞けよ」


 視線の先——酒場の一番奥の隅に、一人の老人が座っていた。


 白い髪。深い皺。潮焼けした肌。背中は曲がっているが、首だけが真っ直ぐ前を向いている。海を見つめたまま動かない。杯も持っていない。ただ、壁際の席に座って、窓の向こうの海を見つめている。


「あの爺さんは昔、あの海域を通ったことがある唯一の人間だ。何十年も前の話だがな」


 アシュタルは立ち上がった。酒を二杯、新しく頼んだ。一杯を自分の手に持ち、もう一杯を持って、古老の隣の椅子に腰を下ろした。


「失礼します。一杯、いかがですか」


 古老は動かなかった。海を見つめたままだった。


 アシュタルは杯をそっと卓に置いた。自分も窓の向こうの海を見た。近海の碧い水面と、その先の暗い海域。境界線がくっきりと見えている。


 急がない。商人は、相手が口を開くまで待てる。沈黙には沈黙で応じる。それが、本当に大事な話を聞くための作法だ。


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