海神の税
古老は長い間、黙っていた。
アシュタルも黙っていた。酒場の喧騒が遠くに聞こえる。船乗りたちの笑い声、杯がぶつかる音、誰かが歌い始めた下手な船歌。その全てが薄い膜の向こう側にあるように感じた。古老の隣の席だけが、別の時間の中にある。
古老の隣に座ってどれくらい経っただろう。卓に置いた杯の酒が温くなった頃、皺だらけの手が動いた。
杯をゆっくりと持ち上げた。口に運び、一口、含む。喉が動いて飲み下す。そして杯を卓に戻した。指先が微かに震えていたが、それが老いのためなのか他の何かのためなのかは分からなかった。
「……若いの」
声は枯れていたが、芯があった。潮風に何十年も晒された木材のような声だ。硬くて、乾いていて、だが折れない。
「はい」
「なぜあの海域を渡りたい」
アシュタルは一瞬、考えた。嘘をつくか、真実を言うか。商人の判断だ。相手の目を見た。古老の目は濁っていなかった。白い睫毛の奥に、長い年月を経てなお消えない透明さがあった。海を見続けてきた目。この目には嘘は通じない。通じたとしても、通す意味がない。
「探している人がいます。その人の痕跡が、海の向こうにある」
古老は頷いた。深くも浅くもない。ただ聞いた、という頷きだった。それ以上は聞かなかった。聞く必要がないと判断したのか、あるいは、理由など問題ではないと知っている者の態度なのか。
「わしが若い頃——もう五十年以上前だ。あの海域を通ったことがある」
酒場の隅で、古老は語り始めた。声は低く、淡々としていた。
「当時もヤム様の海だった。ヤム様は昔から海を治めておられた。海の全てがあの方のものだ。波も、潮も、魚も、海底の砂一粒まで。だが、あの頃は——嵐の神が健在だった」
嵐の神。バアル。アシュタルの耳が一瞬、鋭くなった。
「嵐の神がヤム様を抑えておられたから、海は人間にも開かれていた。完全に自由というわけではないが、渡れた。船は出せた。交易も回った」
古老は杯をもう一口含んだ。
「それでも、ヤム様の海を渡るには『関税』を払わねばならなかった」
「関税?」
アシュタルの声が、自分でも驚くほど静かに出た。
「そう呼ばれておった。海域を通る者には全て、ヤム様が関税を求められる。それが海の掟だ。昔からそうだった。嵐の神がおっても、それだけは変わらなかった」
アシュタルは帳面を膝の上に開いた。卓の下で、目立たないように。古老の視線が帳面に落ちたが、何も言わなかった。書き留める者を嫌う素振りはない。
「関税というのは——金ですか。積荷の一部を納めるとか」
古老は首を振った。ゆっくりと、重たい首の振り方だった。
「金ではない。積荷でもない。何を求められるかは、ヤム様の気分次第だ」
「気分次第?」
「そうだ。わしが渡った時に求められたのは——歌だった」
「歌」
「船歌を一曲歌え、と。それだけだった。わしは震えながら歌った。下手くそな船歌を、声を裏返しながら。ヤム様は笑っておられた。笑って、通してくださった」
古老の目に、遠い記憶の色が浮かんだ。恐怖と、それと同じだけの畏敬。
「嵐の神が治めていた頃のヤム様は、そういう御方だった。気まぐれではあったが——払えないものは求めなかった。歌や、面白い話や、珍しい土産話。そういうものを喜ばれた。だが——」
古老の声が低くなった。杯を見つめる目が曇る。
「嵐の神がおらぬ今は違う。関税は払えぬものになった。何を求められるか分からぬ上に、払えなかった者は海に沈められる。嵐の神という抑えがなくなって、ヤム様は——変わってしまわれた。だから誰もあの海域に近づかんのだ」
帳面に書き留めた。
関税。ヤムの海域を通過するための対価。内容は不定、ヤムの裁量。バアル健在時は形式的で、払えないものは求めなかった。バアル不在の今は実質的な通行禁止。
整理すると、一つの形が見えてくる。
ヤムは略奪者ではない。「関税」という形式を取っている。形式があるということは、枠組みがあるということだ。一方的な暴力ではなく、「通行の対価」という概念の中で動いている。
それは——商取引の論理だ。歪んでいるが、構造は取引と同じだ。
「もう一つ伺いたいのですが」
「聞け」
「関税を払えば、確実に通してもらえたんですか」
古老はしばらく黙った。窓の外を見ている。暗い沖合いの海を。
「……わしの時は、そうだった。歌を歌い終えたら、海が道を開けた。暗い海の中に、嘘のように穏やかな航路が現れたんだ。真っ直ぐに、対岸まで続く光の道が。約束は守る御方だった——少なくとも、あの頃は」
約束は守る。
帳面の隅に、その一言を二重線で囲んで書き加えた。これは重要だ。関税を課す者が約束を守るということは、取引の基盤がある。基盤があるなら交渉ができる。
アナトが近づいてきた。壁に背を預けて話を聞いていたのが、何かに反応して動いたらしい。長身の影が卓に落ちた。
古老がアナトを見上げた。
顔色が変わった。
皺だらけの顔から血の気が引いていく。海を五十年見続けてきた目が、大きく見開かれる。椅子の背を掴む手が、今度は明らかに震えていた。老いのせいではない。
「あんた……」
古老の声がかすれた。
「……神、か?」
アナトは答えなかった。金色の目で古老を見下ろしている。否定も肯定もしない沈黙。だが神力の気配は隠しようがなかった。長年海に生き、ヤムの存在を肌で知っている老人だ。人間ではない者の気配を、その身体が覚えている。
古老の目に、船長たちとは質の異なる恐怖が浮かんだ。あの船長たちは海を恐れていた。この古老は神そのものを畏れている。半世紀前にヤムの前に立ったことがある者だけが持つ、根深い畏怖。
「ヤムの『関税』か」
アナトが口を開いた。低い声だった。
「あいつらしい。力で支配し、通過者から搾り取る」
その声に、個人的な感情が滲んでいた。嫌悪。軽蔑。そして——何かもっと古い記憶に触れたような、かすかな痛み。バアルとヤムの戦いを、この女神は間近で見ていたのだろう。
古老は震える手で杯を握り直した。
「お嬢さん——いや、御方。一つだけ言わせてくれ」
アナトが古老を見た。
「関わらん方がいい。神と神の争いに人間が挟まれたら、砕けるだけだ。わしはあの海域を渡ったが——あれは嵐の神が健在だった頃の話だ。今のヤム様は違う。抑える者がおらぬヤム様は——」
言葉が途切れた。古老の目が窓の向こうの暗い海を見た。その目に、五十年分の記憶が凝縮されていた。
「——海そのものだ。あの暗い海の全てが、ヤム様だ」
酒場を出た。
夜の港に波の音だけが響いていた。月明かりに照らされた桟橋。係留された船の影が波に揺れている。船体が桟橋の柱にぶつかる鈍い音が、一定の間隔で繰り返される。その向こうに、月の光すら飲み込む暗い沖合い。
アシュタルは帳面を開いた。蝋燭がないから月明かりで書く。今日集めた情報を全て並べ、線で結んだ。
ヤムの海域封鎖。関税という形式。バアル不在による力の均衡の崩壊。払えない関税。沈む船。そして——約束は守る神。
問題は明確だ。海を越えなければバアルの痕跡に近づけない。だがヤムの海域は通れない。力で突破すればヤムとの全面対決になる。
では——どうする。
波の音が答えを返すことはなかった。アシュタルは帳面を閉じ、宿を探しに歩き出した。背後で、アナトが暗い海を睨んでいる気配だけが残っていた。




