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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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海風の匂い

 海の匂いがした。


 アシュタルが足を止めたのは、交易路が丘を越えた瞬間だった。砂漠の乾いた風に、湿り気を帯びた別の空気が混じっている。塩と潮草と、遠い水平線の匂い。


 丘の向こうに、海が広がっていた。


 ウガルの港で見慣れた海とは違う。ウガルの海は穏やかな湾に守られた、商人にとっての馴染み深い水面だ。目の前の海はもっと広く、もっと青く、もっと荒々しい。白い波頭が陽光を跳ね返し、海鳥が風に乗って弧を描いている。海岸線に沿って伸びる交易路の先には、小さな港町の輪郭が霞んで見えた。


「久しぶりだな、海は」


 独り言のつもりだったが、隣を歩くアナトが横目でこちらを見た。


「人間は海に感傷を持つのか」


「商人は、ですね。海は交易路です。見れば嬉しくもなりますよ。あの水面の向こうに、まだ見ぬ商品が山ほど眠っていると思えば」


 アナトは興味なさそうに視線を前に戻した。風が赤い髪を攫い、金色の目が眩しそうに細められる。


 帳面を開いた。歩きながら書くのは慣れている。揺れる文字を気にしなければ、移動時間は最高の整理時間だ。


 出発から十四日。これまでに集めたバアルの痕跡情報を改めて並べる。


 ウガルで得た残滓の方角——北西。砂漠の祠で感知した気配——やはり北西。途中で立ち寄った村の老婆が語った噂——「嵐が海の向こうに逃げた」。断片を繋ぎ合わせると、全てが同じ方角を指していた。


 帳面を閉じ、アナトに問いかけた。


「バアルの力の残滓、今はどの方角ですか」


 アナトが足を止めた。風が吹いた。赤い髪がなびき、金色の目が細められる。空気を読むように——いや、空気に溶けた神力の匂いを嗅ぎ分けるように、アナトは顔をゆっくりと動かした。北を向き、西を向き、そして——海の方角で止まった。


「……海だ」


 短い一言だった。


「海の向こう、ですか」


「海そのものだ。バアルの残滓が海の方角にある。——濃い。以前より濃い。近づいている」


 アシュタルは腰の地図を取り出した。羊皮紙の古い地図だが、ウガルの商人組合が発行したものだ。交易路と港の位置だけは信用できる。港町の先に広がる海域を指でなぞった。この海を渡った先には別の沿岸都市がある。そこを経由すれば——


「海を渡る必要がありますね。この先の港から船を出せるなら、二日か三日の航海で対岸に着ける」


 アナトは答えなかった。海を見つめている。その横顔に、普段とは違う硬さがあった。眉間にうっすらと皺が寄り、唇が引き結ばれている。アシュタルの知るアナトは、苛立ちや怒りは隠さない女神だ。こうして表情を押し殺すのは——何かを警戒している時の顔だった。


 丘を下り、交易路を進む。海が近づくにつれて風が強くなった。潮の匂いが濃くなり、道の両脇に干された漁網や貝殻を剥いた跡が目につき始める。漁村の気配。港町が近い。


 前方から、荷駄にだを引いた商隊がやってきた。驢馬ろば三頭に布と香辛料を積んだ小さな隊だ。先頭の荷方がアシュタルたちを見て、足を緩めた。日に焼けた顔に、旅慣れた者特有の警戒と気さくさが同居している。


「旅の者か?」


「ええ。この先の港町に向かっています」


 荷方は顎をしゃくって海の方を指した。


「船を探しているなら無駄足だ。この先の港からは、もう船は出ないぞ」


「出ない?」


「半年ほど前からだ。沖に出た船が戻らなくなった。今じゃ誰も海に出ようとしない。おかげで交易路は陸回りばかりで、荷が詰まって仕方がない。こっちは三日余分に歩かされてる」


 荷方はうんざりした顔でそう言い捨て、商隊を先に進ませた。驢馬の蹄が砂を蹴る音が遠ざかっていく。


 アシュタルは立ち止まった。


 船が出ない。半年前から。


 商人の頭が瞬時に計算を始めた。船が出ないということは、海上交易が止まっているということだ。海上交易が止まれば、この港町だけでなく沿岸部全体の経済が干上がる。塩、魚、染料、海外の香辛料——海路でしか運べない商品が全て止まる。それは港町一つの問題ではない。沿岸交易網全体の崩壊だ。荷方が陸路を三日余分に歩いているのは、その余波のほんの一端に過ぎない。


 半年前。バアルが消えた時期と、ぴたりと一致する。


「アナト」


 振り向くと、アナトの表情が険しくなっていた。海を睨んでいる。金色の目に明確な敵意が浮かんでいた。両腕に刻まれた戦の紋様が、微かに——ほんの一瞬だけ、赤く明滅したように見えた。


「——ヤムの領域に入ったか」


「ヤム?」


「海の神だ」


 アナトの声は低く、硬かった。潮風に乗せるには重すぎる声だった。


「バアルとは——因縁がある」


 それ以上は語らなかった。問い返そうとしたアシュタルの言葉を、アナトの横顔が遮った。聞くなという顔ではない。今は答えたくないという顔だ。商人はその差を見逃さない。「いいえ」と言わなかった相手には、まだ聞く機会がある。今でなくていい情報は、後で聞けばいい。


 海風が強まった。アナトの赤い髪が激しく靡く。潮の匂い。だがその中に——何か別のものが混じっていた。


 生き物とも力ともつかない、重たい気配。肌にまとわりつくような、粘る圧迫感。


 海を見た。


 海岸から数百歩ほどの近海は、陽光に照らされて美しく輝いている。碧と白のまだら模様。波が岸辺を洗い、白い泡を残して引いていく。だが、その先——沖合いの一定の境目から、海面の色が変わっていた。


 暗い。


 雲の影ではない。空は晴れている。なのに、沖合いの海面だけが不自然に暗い。まるで海の底から墨が滲み出しているかのような、沈んだ藍色。碧い海との境界線がくっきりと引かれ、一本の見えない壁が沖合いに立っているようだった。


 美しい海と、暗い海。


 海そのものが、壁を作っていた。


 アシュタルは港町に向かって歩き出した。海風が正面から吹きつける。足元の砂が舞い上がり、外套の裾を叩く。


 海の神の領域。バアルとの因縁。船が出ない港。


 旅の新しい障壁が、波の音とともに二人の前に立ちはだかっていた。


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