道の選択
街道が二手に分かれていた。
分岐点の真ん中に、腰の高さほどの石碑が立っている。風に削られた表面に、二つの方角と二つの地名が刻まれている。右は北東——内陸へ向かう道。左は北西——沿岸の交易都市ビブロスへ繋がる道。
アシュタルは荷袋から地図を取り出した。
この地図は父の書斎から拝借したものだ。ベン=シャハル商会が三代にわたって書き足してきた交易路の地図。街の名前、街道の距離、水場の位置、商人の宿がある場所——全てが細かく書き込まれている。ただし、商人の地図には「冥界への入口」は記されていない。
「ここで少し相談があります」
アナトは石碑の横に立ち、腕を組んでいた。朝の光の中で赤い髪が風に靡いている。
「相談? お前が道を決めるのか」
「道を決めるのは二人です。僕は提案をする。あなたが判断する。合意できなければ交渉する。契約の基本です」
「面倒な。さっさと歩けばいいものを」
「面倒なのが商売です。でも面倒をやった方が最終的に得をする。それも商売です」
地図を広げた。石碑の平らな頂部をテーブル代わりにして、アナトにも見えるように向きを調整する。アナトは地図を一瞥した。人間が作った地図など興味がなさそうだったが、少なくとも覗き込む素振りは見せた。
「まず情報を集めたいんです。交易路上の街で、バアルの痕跡について聞き込みをしながら進みたい」
指で地図上のルートを示した。ウガルから北東に向かう街道沿いには、いくつかの街がある。交易の中継地。商人が集まり、情報が集まる場所。父の地図には、それぞれの街の特産品と商人の宿の位置まで書き込まれていた。
「商人のネットワークがあります。各地に知り合いの商人がいる——父の取引先ですが。彼らから情報を買える。バアルの神殿がある街も交易路上にいくつかある。神殿の神官に話を聞くこともできる」
アナトの眉が寄った。
「回り道だ」
「はい」
「最短で冥界を目指すべきだ。時間がないのはお前が一番分かっているだろう」
声に苛立ちが混じっていた。百五十日の期限。一日が過ぎるごとに、残りの日数が減っていく。旅の二日目にして、もう百四十八日しかない。アナトの目にはそれが見えている。
「直進しましょう。バアルの気配はまだ微かだが、方角は分かる。北東だ。間に何があろうと突き抜ければいい」
戦争の女神の発想は直線的だった。目標を定め、障害を排除し、最短距離で到達する。戦場では正しい。千の敵を双剣で薙ぎ倒してきた女神にとって、障害とは「斬るもの」であって「迂回するもの」ではない。
だが——
「冥界の正確な場所を知っていますか」
アナトが一瞬、口を閉じた。
「……方角は分かる」
「方角は分かる。でも距離は分からない。正確な入口の場所も分からない。途中にどんな障害があるかも分からない」
アシュタルは石碑に腰掛けた。立ったまま交渉するのは好きではない。座って、目線を合わせて——いや、アナトの方が背が高いから目線は合わないが、少なくとも「話し合い」の体裁を整えたかった。
「未知の土地を最短距離で突き抜けるというのは、地図なしで海に出るのと同じです。商人はそれを無謀と呼びます」
「ならどうする」
「商人は道中で稼ぎながら進みます」
アナトの表情が怪訝なものに変わった。
「稼ぐ? この状況で商売をすると?」
「情報を集めるということです。交易路を通れば物資の補給もできるし、人も集まる。人が集まる場所には噂がある。噂の中にバアルの手がかりがある可能性は十分にあります」
地図の上を指でなぞった。
「それに——各地でバアルの力の残滓を調べられます。仮に、バアルの力が北東に向かって点々と残っているなら、それを一つずつ記録していけば軌跡が見える。点を繋げば線になる。線が延びた先に、バアルがいる」
アナトは黙った。
苛立ちが消えたわけではない。だが、考えている。戦争の女神にも、理が通れば耳を傾ける知性はある。
沈黙が数秒続いた。
「三日」
アナトが言った。
「三日?」
「次の街まで三日。そこで何も得られなければ、私のルートに従え」
条件つきの試行。完全な合意ではない。だが——テーブルに着いた。商談の席で最も大切なのは、相手が「聞く姿勢」を見せた瞬間を逃さないことだ。アナトは「三日」と言った。それは拒絶ではない。猶予だ。猶予を与えた時点で、半分は折れている。
「分かりました。三日で結果を出します」
アシュタルは帳面を開き、素早く書き込んだ。期限:三日。次の街までに成果を出すこと。成果がなければアナトのルートに従う。条件は明確だ。こういう交渉は、条件が明確であればあるほど双方にとって公平になる。曖昧な合意は後で必ず揉める。それは父から叩き込まれた鉄則だった。
「……お前は何でも帳面に書くな」
「書かないと忘れます」
「忘れるような頭で商売ができるのか」
「忘れないために書くんです。商人の記憶は帳面にある。頭の中にある情報は歪む。帳面に書いた情報は歪まない。だから大事なことほど書く」
「……神は忘れない」
「羨ましいですね。帳面代が浮く」
アナトが「ふん」と鼻を鳴らした。いつもの鼻息だが、苛立ちの色は薄れていた。何千年分の記憶を忘れないのは、便利なことばかりではないだろうと思ったが、それは口にしなかった。
地図を畳み、荷袋に戻した。
右の道——北東への街道を歩き始めた。アナトが半歩先を歩く。先頭を取るのは戦士の本能だろう。周囲を警戒しながら歩くその姿は、護衛というより斥候に近い。金色の目が左右に動き、道の先を睨み、時折立ち止まって風の匂いを嗅ぐような仕草をする。
アシュタルはその半歩後ろで、帳面に書き込みを続けた。
バアルの神殿がある街。交易が盛んな街。商人のネットワークがある街。地図に印をつけていく。父の取引先で、まだ面識はないが名前だけ知っている商人が何人かいる。手紙も持っていないが、ベン=シャハルの名前を出せば話は聞いてもらえるはずだ。ウガルの商人の間では、父の信用はそれなりに厚い。
この旅は冒険ではない。
商談の旅だ。取引先が人間から神に変わっただけで、やることは同じだ。情報を集め、条件を整理し、最善の取引を目指す。
街道の先に、まだ見ぬ街がある。そこに答えがあるかどうかは分からない。だが答えを探す方法は知っている。商人は市場を歩く。人と話す。噂を拾い、数字を読み、裏を取る。バアルの痕跡だって、同じ方法で追える——はずだ。
三日。
アシュタルは帳面を閉じ、歩く速度を上げた。足の豆は昨日より痛い。だが三日の期限が、痛みを背景に押しやった。期限があるから動ける。商人が最も恐れるのは、締め切りのない仕事だ。




