嵐の残響
それは三日目の午後に見つかった。
アナトとの「三日」の約束は、このまま何も得られなければ今日で切れる。次の街まではまだ半日の距離がある。焦りが足を速めていた。帳面に記録した情報は、街道の風景と商隊の動向ばかりで、バアルに繋がるものは何一つなかった。
街道から少し外れた場所——丘を一つ越えた先の窪地に、それはあった。
最初に気づいたのはアナトだった。歩みが止まり、赤い髪がふわりと揺れた。風が変わったのかと思った。だが風向きは同じだ。変わったのはアナトの表情だった。
「止まれ」
アシュタルは足を止めた。アナトの声に命令以上の何かが混じっていた。緊張でも警戒でもない。もっと深い、胸の奥から搾り出されたような声だった。
「あちらだ」
アナトが街道を外れた。迷いのない足取りで丘を登り始める。アシュタルは黙ってその後を追った。質問は後だ。あの声の調子で立ち止まった相手に、今「どこへ行くんですか」と聞く商人はいない。
丘を越えた。
そして、見た。
乾いた大地が続いていた——はずだった。街道沿いの風景はずっとそうだ。赤茶けた土と、疎らな灌木と、時折現れる岩場。水が乏しい土地の、乾いた匂い。
だがそこだけが違った。
窪地の底に、緑があった。
鮮やかな緑だ。草が膝の高さまで生い茂り、名前も知らない花が咲いている。白い花。紫の花。小さな黄色い花が地面を覆うように群生している。葉の上には朝露のような水滴が光っていた。午後の陽射しの中で、それは場違いなほど瑞々《みずみず》しかった。
周囲は枯れた荒野だ。十歩先から先は赤茶けた土に戻る。そこだけが——まるで別の季節を生きているかのように、緑に溢れていた。
アナトが丘を下り、緑の端に立った。
一瞬、立ち尽くした。その一瞬の中に、何千年分の感情が圧縮されているように見えた。
そして、膝をついた。
戦争の女神が、膝をつくのを見たのは初めてだった。あの高慢な、誰にも頭を下げない女神が。片膝を地面につき、右手を緑の地面に触れた。指先が草の葉に触れ、土に触れ、その下にある何かを確かめるように、ゆっくりと掌を広げた。
沈黙があった。
虫の声さえ遠のいたように感じた。アナトの背中が微かに震えている——いや、震えているのは指先だけだ。それ以外は微動だにしない。
「バアルの力の残滓だ」
声が震えていた。
それは一瞬のことだった。次の言葉を発する時には、もういつものアナトの声に戻っていた。だが最初の一言だけは——確かに、震えていた。
「……生きている」
アシュタルの胸の中で、何かが跳ねた。
バアルの力が、ここに残っている。嵐と豊穣の神の力が、この乾いた大地に緑を生み出している。力の持ち主が消えても、残滓がまだ生きている。つまり——
「バアルは生きている、ということですか」
「力が残っている。力の源が消えていれば、残滓はとうに枯れている。これだけの緑を維持できているなら——バアルの力は、まだどこかで脈動している」
アナトが立ち上がった。顔を見た。金色の目が、いつもより明るく見えた。光の加減ではない。目の奥にある何かが——希望なのか、確信なのか、あるいはもっと生々しい感情なのか——表面に浮かび上がりかけていた。
だがそれも一瞬だった。アナトは表情を引き締め、いつもの鋭い視線に戻った。
アシュタルにとっても、この発見は大きかった。
バアルが生きているなら、交渉の余地がある。死者とは取引できないが、生者とはできる。契約の更新が可能だ。一族を救える。百五十日の期限の中で、辿り着ける可能性がある。
ヤリムの顔が浮かんだ。味覚を失った弟。あの子の舌にもう一度味を戻す。そのためにここにいる。その目的に、今初めて具体的な道筋が見えた。
帳面を取り出した。手が少し震えていた。興奮だった。商人が大きな取引の糸口を掴んだ時の、あの腹の底が熱くなる感覚だ。
旅の記録。三日目。バアルの力の残滓を発見。
場所——ウガルから北東に徒歩三日。街道から丘を一つ越えた窪地。
特徴——半径二十歩ほどの円形に緑が生い茂っている。草、花、朝露。周囲は乾燥した荒野。残滓は「生きている」とアナトが判断。
推定——バアルの力は北東方向に向かって残されている。
帳面に書き込みながら、地図を開いた。ウガルの位置に印を打ち、今いる場所にもう一つ印を打つ。二つの点を線で繋ぐ。
点が一つ、地図に打たれた。
一つでは線にならない。だが、次の点が見つかれば方角が確認できる。三つ目が見つかれば軌跡になる。商人の追跡法だ。帳簿の数字が嘘をつかないように、地図の点も嘘をつかない。
三日の約束は、結果を出した。アナトに向き直った。
「これで、商人の旅を続ける価値はあると認めてもらえますか」
アナトは答えなかった。だが北東を向いたまま、ごく小さく頷いた。それで十分だった。
「方角は分かりますか」
アナトが北東を見つめた。丘の向こう、乾いた大地の向こうに何があるのか、アシュタルの目には見えない。だがアナトの目には、何かが見えているようだった。
「あちらだ。バアルの気配は——北東に向かっている」
アシュタルは地図を見下ろした。北東に線を延ばすと——砂漠がある。
この地図には砂漠の詳細は描かれていない。商人が行かない場所は地図に載らない。利益のない土地に墨を費やす商人はいない。だが砂漠の存在だけは記されている。交易路の終点を示す赤い線の先に、「沙漠 通行不可」と父の筆跡で書いてあった。商人の世界の外側。
そしてその砂漠の向こうには、古い伝承が語る場所がある。
冥界への入口。
帳面を閉じた。
北東。砂漠。その先に冥界への入口。
バアルの痕跡は確かにそちらへ向かっている。旅の方角が定まった。高揚感と、同じだけの緊張感が腹の底でせめぎ合っている。砂漠の先に何が待っているのかは、帳面にも地図にも書かれていない。父の赤い線の向こうは、白紙だ。
アナトは何も言わず、緑の痕跡を背にして歩き始めた。だがその足取りは、さっきまでとは微かに違っていた。速い。力がある。目的地が見えた者の歩き方だ。
アシュタルもその背中を追った。足の豆はまだ痛い。だが不思議と、三日前よりは楽だった。体が旅に慣れ始めている。あるいは、痛みの閾値が上がったのかもしれない。
風が吹いた。
北東から——乾いた、砂の匂いを帯びた風が。
その風の中に、アシュタルは微かに感じた。右手首の内側、布で覆った「捧げもの」の印が——ほんの一瞬だけ、温かくなったことを。
気のせいかもしれない。だが帳面には書いておいた。
備考——印に微かな反応あり。要経過観察。
商人は全てを記録する。気のせいかもしれないことも。




