最初の夜
焚き火が爆ぜた。
火の粉が夜空に舞い上がり、一瞬だけ星に混じって消えた。乾いた枯れ枝が燃える匂いと、夜風が運んでくる土と草の匂いが混ざり合っている。虫の声が遠くから聞こえる。ウガルでは潮騒だった夜の音が、ここでは虫の合奏に変わっていた。
旅の最初の夜だった。
街道から少し外れた窪地に野営した。窪地なのは風を避けるためだ——とアナトが言った。戦場での野営の基本らしい。高い場所は見晴らしがいいが風に晒される。低い場所は風を避けられるが視界が利かない。戦争の女神は視界より風を選んだ。つまり、敵が来ても見える前に斬れるという自信の表れだ。
アシュタルにはテントの立て方が分からなかった。
正確には、知識としては知っていた。商隊に同行して旅をする商人の話は何度も聞いた。杭を打ち、布を張り、風上に入口を向けない——理屈は分かる。だが実際に手を動かすと、杭は曲がり、布は弛み、ロープの結び目はするりと解けた。
三度目の失敗を見て、アナトが無言で立ち上がった。
片手で杭を地面に突き刺し——石の地面に、指で押し込むように——布を一息に張った。神の腕力で立てられたテントは歪だが頑丈だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。壊れた商品を修繕しただけだ」
先日の交渉で使った言い回しを返してきた。護衛の条件を飲んだ時の「壊れられては困る」と同じ論理だ。感謝を受け取りたくないのだろう。アシュタルは肩をすくめて、それ以上は言わなかった。
焚き火はアナトが起こした。
これは最初から任せた。火を起こす道具は持っているが、アナトの方が早い。女神が地面の枯れ枝を集め、手のひらで一瞬だけ力を込めると、枝が燃え上がった。神力で火を点けたのか、それとも単純に摩擦で発火させたのか。聞こうとしたが、アナトの表情が「聞くな」と言っていたのでやめた。
戦争の女神が焚き火を起こす。奇妙な光景だった。だが考えてみれば、軍を率いて何千年も戦い続けた存在だ。野営の技術は人間の兵士より遥かに高いのだろう。
火の傍に二人で座った。
アシュタルは荷袋から干し肉を取り出した。固い。歯が折れそうなほど固い。安物を買ったのではない。長持ちする干し肉は固いものだ。これを削るように噛みながら、水で流し込む。旅の食事としては上等な部類だ。
アナトは火を見つめていた。腕を組み、片膝を立てた姿勢で。炎の光が赤い髪を照らしている。
干し肉を一切れ、差し出してみた。
「いりますか」
「神は食わん」
即答だった。当然といえば当然だ。神は食事を必要としない。エネルギーの補給という概念が人間とは根本的に異なるのだろう。
「そうですか」
アシュタルは干し肉を齧った。固い。顎が疲れる。水を一口飲んで、また齧る。火の爆ぜる音と、肉を噛む音だけが野営地に響く。
沈黙が流れた。
不快な沈黙ではなかった。二人とも口下手なわけではない——少なくともアシュタルは口が達者な方だ。だが今は話す必要がなかった。焚き火があり、夜があり、虫の声があった。それで十分だった。
ふと、アナトが手を伸ばした。
干し肉の束に、長い指が触れる。一切れを取り上げ、眺め、口に運んだ。
一口、齧った。
「……まずい」
「味覚があるんですね」
「ある。だからまずいと言っている」
神は食べない——はずだった。だが今、目の前でアナトが干し肉を咀嚼している。顔をしかめながら。嫌そうに。だが二口目も齧った。
なぜ食べたのか。聞かなかった。聞いたところで「暇だからだ」か「口が寂しかっただけだ」としか返ってこないだろう。理由を問うのは野暮だ。商人は、相手が買った理由を詮索しない。買ったという事実だけが取引の記録に残る。
干し肉を齧りながら、アシュタルは空を見上げた。
星が近い。
ウガルの港でも星は見えたが、街の灯りと、港の松明と、酒場の窓から漏れる光が邪魔をしていた。ここにはそういうものがない。焚き火の光が届く範囲を一歩出れば、漆黒の空に無数の星が散らばっている。砂漠に近い土地の乾いた空気が星の光を鋭くしていた。
こんなに多くの星を見たのは初めてだった。港の星空の十倍はある。いや、もっとか。数えきれない光の粒が天蓋を埋め尽くし、その中を薄い光の帯が横切っている。
「あの星」
アシュタルが指さした。天頂近くに光る、ひときわ明るい星。
「商人の間では方角の目印にします。あの星が真北。夜に道を見失った時、あの星を頼りに進む」
アナトが同じ星を見上げた。
「あれはバアルが空に投げた石の一つだ」
「石?」
「バアルがまだ若かった頃——と言っても人間の時間で数千年前だが。ヤムと初めて戦った夜、怒りに任せて石を空に投げた。それが燃えて星になった」
アナトの声は淡々としていた。だがその「淡々」の底に、何かが沈んでいるのをアシュタルは聞き取った。商人の耳は声の色を聞く。値段を偽る商人の声と、本当の値段を言っている商人の声は違う。アナトの声は——本当のことを言っている時の声だった。兄の思い出を、飾らずにそのまま語る声。
同じ星を見ている。
人間は方角の道具として。神は兄の記憶として。
一つの光に、全く違う物語が重なっている。商人が「北の目印」と呼ぶものが、女神にとっては兄が投げた石だ。どちらが正しいという話ではない。同じものを見ていて、見えているものが違う。
その差が、不思議と心地よかった。
「面白いですね」
「何がだ」
「同じ星なのに、全然違うものが見えている」
「当然だ。人間と神は違う」
「違うから面白いんです。同じものが見えていたら、わざわざ聞く必要がない」
アナトが一瞬、黙った。それから「ふん」と鼻を鳴らして視線を火に戻した。否定はしなかった。
夜が深くなった。
気温が下がり始めた。砂漠に近い土地の夜は冷える。昼間は汗が滲むほどの熱気だったのに、日が沈んだ途端に空気が入れ替わったように冷たくなる。夜風が肌を刺し、腕に鳥肌が立った。アシュタルは荷袋から毛布を引っ張り出し、肩にかけた。
アナトは寒くないのだろうか。薄い戦装束のまま、微動だにしない。神の体は気温に左右されないのかもしれない。あるいは、数千年の戦場暮らしで寒暖など気にならなくなったのか。
瞼が重い。一日歩き通した疲労が、焚き火の温もりと虫の声に溶けて、意識を引きずり込もうとしている。
「おやすみなさい」
「……神は眠らん」
「じゃあ、見張りをお願いします」
「……ふん」
毛布にくるまった。地面は固い。石が背中に当たる。ウガルの寝台とは比べものにならない寝心地だ。だが疲労が全てを上書きした。目を閉じた瞬間に意識が沈み始める。
沈みかけた意識の中で、焚き火の光がぼんやりと見えた。
その向こうに、アナトの横顔がある。
火に照らされた赤い髪。金色の目が炎を映している。膝を抱えるような姿勢で、どこか遠くを見ていた。戦争の女神の横顔は——今だけ、戦場から遠い場所にいるように見えた。
神は眠らない。だが、どこか穏やかに見えた。
その光景を最後に、アシュタルは眠りに落ちた。




