港を出る
朝陽がウガルの白い壁を焼いていた。
港町の朝は早い。漁師が網を繰り、荷運びの男たちが声を張り上げ、露店の商人たちが天幕を広げる。アシュタルが十八年間聞き続けてきた朝の音が、今日も変わらず街を満たしている。
だが今日、アシュタルはその音の中を通り過ぎる側だった。
背中の荷袋には干し肉、干し果物、水袋二つ、銅貨の入った革袋、替えのサンダル、そして帳面と筆。商人の旅支度は軽い。金さえあれば道中で何でも買える——というのが商人の理屈だが、金が尽きた時のことも考えて最低限の食料は積んだ。
街の門に向かって歩きながら、一度だけ振り返った。
白い壁。青い海。丘の上に並ぶ家々。港に停泊する商船の帆柱が朝陽を受けて金色に光っている。父の商会がある通りは、ここからでは見えない。だが場所は分かる。目を閉じれば、帳場の匂いまで思い出せる。
百五十日後に帰る。
それだけ胸の中で唱えて、前を向いた。振り返るのは一度でいい。父もそうだった。商人は背中で語る。
門の手前で、赤い髪が目に入った。
アナトは門柱にもたれて腕を組んでいた。軽装の戦装束。双剣を背に負い、朝陽の中でも陰のように鋭い金色の目でこちらを見ている。
「遅い」
「約束の時刻より早いですけど」
「私はもっと早くから待っていた」
神が人間を待つ。奇妙な光景だが、アナトの表情にそれを気にした様子はなかった。彼女にとっては「先に集合場所に着いておく」という兵士の習慣に過ぎないのだろう。
「では、行きましょう」
「ああ」
門をくぐった。
ウガルの門は内と外で世界が違う。門の内側は石畳で、商人と職人と漁師の声で溢れている。門の外側は土の道で、風の音しかしない。その境界を一歩で越えた。
街道はウガルの門から北東に伸びている。本来なら海路が早い。ウガルは港町だ。船を使えば、沿岸の都市を繋いで北東へ進める。商人なら誰でもそう考える。
アシュタルもそう提案した。本契約の交渉の席で。
アナトの答えは端的だった。
「海はヤムの領域だ。今は通れない」
「ヤム?」
「海の神だ。川と海を支配している。バアルがいた頃は均衡が保たれていたが、今はヤムが好き放題に領域を広げている。断りなく海に出れば、船ごと沈められる」
海を支配する神がいる。その領域を通るには許可がいる。バアル不在の今、ヤムとの交渉権を持つ者がいない——アナトは戦争の女神であって、外交の女神ではない。力ずくで通ることはできても、それはヤムとの全面戦争を意味する。
「力ずくで通れば——」
「通れる。ヤムの僕を沈め、波を斬り、海路を開くことはできる。だがそれはヤムとの開戦を意味する。バアルを追いながらヤムとも戦う余裕はない」
アナトの口調は淡々としていた。海の神との全面戦争を「余裕がない」の一言で切り捨てる。戦えないのではなく、戦わない方が効率がいい。戦争の女神の判断としては、むしろ合理的だった。
だから陸路だ。
アシュタルにとって、この情報はいくつかのことを意味した。世界には海を支配する神がいること。神々はそれぞれ領域を持つこと。バアルの不在が世界の均衡を崩していること。そして——海路を使えないということは、旅程の見積もりをかなり修正しなければならないということだ。
帳面にはすでに書き込んである。ヤム——海の神——要交渉。将来的に海路を使う必要が出た場合、ヤムとの取引が必要になる。商人は将来の取引先の名前を忘れない。
街道を歩いた。
ウガルを出て半刻もすると、風景が変わり始めた。白い壁の家々が途切れ、オリーブ畑が広がり、やがてそれも疎らになって乾いた大地が現れる。交易路の道標が立っている。石に刻まれた文字はウガルの方角と距離を示していた。逆方向の文字は次の街の名前。まだ行ったことのない街だ。
すれ違う商隊があった。驢馬に荷を積んだ小さな隊列が南に向かっている。先頭の男がアシュタルの格好を見て軽く手を上げた。商人同士の挨拶だ。アシュタルも手を上げ返す。
隣のアナトには目もくれなかった。アナトの姿が人間にどう見えているのかは分からない。旅の女戦士くらいに見えているのかもしれない。少なくとも「戦争の女神」には見えていないだろう。
道は平坦だった。だが歩き慣れていない。
午前のうちはまだ良かった。朝の涼しさが残っていたし、風景の新鮮さが足を軽くしてくれた。問題は太陽が頭の上に来てからだった。
昼を過ぎた頃から足が痛み始めた。サンダルの鼻緒が食い込み、踵に豆ができかけている。商人は帳場に座って仕事をする生き物だ。一日中歩くようにはできていない。肩にかけた荷袋が汗で滑り、何度もかけ直す。水袋の中身が減っていく速度が、想定より早い。
だが口は元気だった。
「あの植物は何でしょう。ウガルでは見ない種類ですね。食べられるなら交易品になる」
「知らん」
「道標の石、ウガルのものより古いですね。文字の彫り方が違う。二世代前の書体だ」
「興味がない」
「この土、色が赤い。鉄分を含んでいるんでしょうか。陶器の原料に使えるかもしれない」
「……お前は黙って歩けないのか」
「歩くだけだと足の痛みに意識が集中するので」
アナトが鼻を鳴らした。呆れか、それとも別の何かか。判別がつかないまま、アシュタルは歩き続けた。
日が傾き始めた頃、街道沿いの木陰で足を休めた。
帳面を開いた。新しい頁。旅の記録用に確保しておいた白紙だ。これまでの頁には取引の記録、仕入れ値と売値、掛け払いの日程が並んでいた。今日から——違うものを記す。
旅の記録。一日目。
ウガルを出発。天候晴れ。同行者一名。
筆が止まった。「同行者一名」の後に何と書くか。「女神」と書くのは気が引ける。帳面を誰かに見られた時のことを考えると。
結局、こう書いた。
同行者一名(戦闘担当)。所持金——。
数字を書き連ねた。食料の残量。水の消費速度。今日の歩行距離の見積もり。気温。風向き。すれ違った商隊の規模と方角。道標の文字。
全てを数字と文字で埋めていく。商人の帳面は世界の記録だ。取引先が変わっただけで、やることは同じだ。
帳面を閉じて、街道の先を見た。
見知らぬ土地が広がっている。乾いた大地。遠くに丘陵の影。名前も知らない街がその向こうにあるはずだ。
アナトは木陰の端に立ち、街道の先を見つめていた。疲れの色は微塵もない。当然だ。神に疲労はない。人間の歩幅に合わせてくれていることすら、護衛の一環なのだろう。
風が吹いた。ウガルの方角から、かすかに潮の匂いが混じった風が。明日にはもう届かなくなるだろう。
新しい頁が、新しい物語の始まりを告げている。




