父の言葉
早朝のウガル港は、薄い靄に包まれていた。
船はまだ動いていない。夜明け前に出る漁船がいくつか沖に向かった後の、束の間の静けさ。波が桟橋の杭を叩く音だけが、一定の間隔で響いている。潮の匂いが靄に溶けて、空気そのものが塩の味をしているようだった。
アシュタルが港に着いた時、父は既にそこにいた。
タグムは桟橋の端に立っていた。背が高い。アシュタルより頭半分ほど大きい。痩せてはいるが、骨格のしっかりした体つきで、長年の商いで日に焼けた顔は革のように硬い。白い息が靄に混じる。朝はまだ冷える季節だった。
母には昨夜別れた。弟にも。
父だけが、ここにいる。
「早いですね」
「お前が遅い」
それだけだった。父は港の先を見ていた。靄の向こうに、水平線がぼんやりと見える。
二人で桟橋を歩いた。
言葉はなかった。父と息子が並んで歩く。足音が板張りの桟橋に響く。規則的な二組の足音。だが父の足音は、いつもより間隔が長い。感覚が鈍っているのだ。足の裏の感触が分からなくなりかけている。だから一歩一歩を確かめるように、慎重に歩いている。板が濡れているのか乾いているのか、傾いているのか平らなのか、足の裏が教えてくれないのだ。
商人の父が、地面の感触を確かめながら歩かなければならない。
その事実が、言葉よりも重く胸に落ちた。
「荷物は揃えたか」
「はい」
「帳面は」
「三冊。取引記録、旅程、予備」
「天秤は」
「父さんの折り畳みを借りました」
「ああ。あれは良い天秤だ。分銅を失くすなよ」
「失くしません」
商売の話。父はいつもそうだ。感情の話はしない。数字と物の話をする。それが父の言語で、アシュタルはその言語を幼い頃から学んできた。「天秤を大事にしろ」は「お前を大事に思っている」の翻訳だ。「帳面は持ったか」は「忘れ物はないか、心配だ」の翻訳。商人の父と商人の息子は、商売の言葉で情を交わす。
桟橋の突端まで来た。靄が薄くなり始めている。東の空が淡く色づいて、港の水面に朝の光が滲んでいた。
父が足を止めた。
アシュタルも止まった。
父の手が動いた。首元に手をやり、何かを外している。革紐に通された、小さな銅の塊。動きがぎこちない。指先の感覚が鈍っているせいで、紐の結び目を解くのに時間がかかっている。
ペンダントだった。
古い銅でできている。年月を経て表面は暗い緑青を帯び、角が丸くなっている。大きさは親指の先ほど。円形ではなく、やや歪な楕円。鋳造ではなく、誰かが手で打ち出したもののようだった。素朴で、飾り気がない。
父がそれを差し出した。
「……これは?」
「祖父の形見だ」
アシュタルの祖父は、アシュタルが生まれる前に亡くなっている。顔も知らない。ただ、優れた商人だったとは聞いていた。父が時折、祖父の商談の話をすることがある。「親父ならこうした」という言い方で。
「商売のお守りですか」
「分からん」
「分からない?」
「祖父が死ぬ前に渡された。『これが何か分かるか』と聞かれて、分からんと答えた。祖父は笑って、『分からんなら持っておけ』と言った。——それだけだ」
父がペンダントをアシュタルの掌に載せた。
冷たかった。銅の冷たさ。朝靄の湿気を吸って、表面にうっすらと水滴がついている。だがどこか——奥に、微かな温もりがあるような気がした。長年父の胸元にあった残り熱かもしれない。あるいは、ただの錯覚か。
ペンダントを手の中で転がした。軽い。銅にしては軽すぎる気もする。表面の緑青を親指でなぞると、微かな凹凸がある。模様か——いや、文字か。
「裏を見てみろ」
ひっくり返した。
裏面に、何かが刻まれていた。細い線で彫り込まれた文字。だが読めない。ウガリットの楔形文字ではない。エジプトの聖刻文字でもない。フェニキアの文字にも見えない。見たことのない書体だった。
いや——一箇所だけ、見覚えがある。
この曲線の形。昨日、粘土板の右半分に刻まれた文字に似ている。アナトが神力で刻んだ、あの流れるような——。
「この文字は——」
「読めるか」
「……読めません」
「そうか」
父はそれ以上、何も聞かなかった。問い詰めない。追及しない。商人は相手の顔を見て、今はこれ以上踏み込むべきでないと判断したら、引く。父はそれを息子にも適用した。
「分かった時にまた教えてくれ」
静かな声だった。命令ではない。期待でもない。ただ——息子がいつか答えを見つけることを、当然のように信じている声。疑いのない信頼。それは交渉術ではなく、父親の声だった。
アシュタルはペンダントを握りしめた。銅の角が掌に食い込む。この感触は——まだ、分かる。鈍り始めた触覚が、それでもこの角の鋭さを拾っている。
「預かります」
「ああ」
革紐を首にかけた。ペンダントが胸元に落ち着く。軽いが、確かな重みがある。懐の粘土板の隣で、銅の塊が体温を吸い始めている。
父が背を向けた。
一歩、二歩。桟橋を戻っていく。靄の中に、父の背中が遠ざかっていく。足取りは慎重だった。板の感触を確かめるように、一歩ずつ。
一度も振り返らなかった。
商人は背中で語る。父がそう言ったことはない。だがアシュタルは知っていた。父の背中を、十八年見てきた。取引先に向かう時の背中。商談を終えて帰ってくる時の背中。成功した時も、失敗した時も、父は背中を丸めなかった。
今も——震える足で、確かめるように一歩ずつ歩きながら、背中だけはまっすぐだった。足は揺れても、背骨は折れていない。
その背中が、朝靄に溶けていく。輪郭がぼやけ、色が薄れ、やがて——見えなくなった。
アシュタルは桟橋の突端に一人で立っていた。
靄が晴れ始めている。東から陽が差し、港の水面が金色に染まる。船が動き出す気配。漁師たちの声が遠くから届く。ウガルの朝が動き出している。
ペンダントを握りしめた。冷たい銅。だがもう、父の体温ではない温もりがある——ような気がする。銅の奥に、何かが眠っている。そんな感覚。
裏返して、もう一度あの文字を見た。読めない古い文字。だが確かに、アナトが粘土板に刻んだ文字と似た曲線がある。神の文字に近い何か。なぜ祖父の形見に、神の文字が刻まれているのか。
「分かった時に、か」
呟いて、ペンダントを服の内側に入れた。粘土板二枚と、銅のペンダント一つ。胸の中の荷物が、また一つ増えた。
背後に足音がした。
振り返ると、赤い髪の女神が朝靄の中に立っていた。軽装の戦装束。双剣を腰に佩いている。腕を組み、不機嫌そうな顔で——いつもの顔でこちらを見ている。赤い髪が朝陽を受けて、靄の中で燃えるように光っていた。
「待たせたな」
アナトの声は素っ気なかった。だが、罵倒はしなかった。遅いとも、急げとも言わなかった。父との別れを見ていたのだろう。何も言わないのが、この女神なりの気遣いだと——アシュタルは思った。言葉が不器用な女神は、沈黙で気遣いを示す。
「お待たせしました」
「……行くぞ」
「はい」
アナトが踵を返し、北に向かって歩き出した。迷いのない足取り。戦の女神は地面の感触に困らない。
アシュタルはもう一度だけ、港を——ウガルの港を見た。靄が晴れて、街並みが朝陽に照らされている。石造りの倉庫群、漁師の網干し場、遠くに見える市場の屋根。十八年間を過ごした街。ここで生まれ、ここで育ち、ここで商人になった。
百五十日で、帰ってくる。
甘い菓子を山ほど抱えて。帳面に旅の記録を満載にして。そして——家族の声と、感覚と、命を取り戻して。
ペンダントの重みを胸に感じながら、アシュタルは歩き出した。
アナトの赤い髪が、朝陽の中で揺れている。北に続く道が、靄の先に伸びていた。
旅が、始まる。




