母と弟
出発前夜の台所は、いつもより静かだった。
母が夕食を作っている。いつもと同じ場所に立ち、いつもと同じ鍋を火にかけている。だが手つきが違った。いつもより丁寧で、いつもより遅い。豆の煮込みに香辛料を加える指が、何度もためらうように止まる。味見をして、首を傾げ、もう少し足して、また味見をする。
味が分からないのだ。だから何度も確かめる。正解が舌に伝わらないまま。
アシュタルは居間の隅に座って、その背中を見ていた。
母の背中は小さかった。こんなに小さかっただろうか。去年まではもっと大きく見えていた気がする。父の隣で商会の帳簿をつけ、取引先の夫人たちと渡り合い、市場では値切りの腕で近所に名を轟かせていた母。その背中が、今は痩せて小さい。感覚喪失の症状は母にも確実に出ていた。味覚が鈍くなり、料理の味付けが日に日に濃くなっている。
「母さん」
「ん?」
振り返らない。鍋の中身をかき混ぜながら答える。
「明日、発ちます」
「知ってるよ」
短い返事。鍋から湯気が立ち上り、母の横顔を霞ませた。
「……まだ温かいうちに食べなさい」
食卓に鍋が置かれた。豆と羊肉の煮込み。パンを焼く余裕はなかったのか、干し麦の平焼きが添えてある。質素な食事だった。だが量だけは多い。明らかに、アシュタルの分を多く盛っている。椀からはみ出しそうなほどの豆と、大ぶりに切った羊肉。
「こんなに食べられませんよ」
「食べなさい。旅に出たら、まともなものは食べられないんだから」
母が向かいに座った。自分の椀には、ほとんど何も入っていない。
「母さんも食べてください」
「私はいいの。味が——」
そこで言葉が止まった。母が唇を噛んだ。
味が分からない。そう言いかけて、飲み込んだのだ。息子の前で弱みを見せまいとする。商人の妻らしい矜持だった。
食卓に沈黙が落ちた。油灯の炎が揺れ、二人の影が壁に伸びている。
アシュタルは匙を取り、煮込みを口に運んだ。豆の甘さと羊肉の脂が舌に広がる。香辛料がやはり濃い。クミンと胡椒が舌を刺すほどだ。だが——美味かった。この味を覚えておこうと思った。百五十日の旅の間、この味を忘れないように。母の手が作ったこの味を。
「美味いです」
「……そう」
母が微笑んだ。微笑んで——目から涙がこぼれた。
音もなく、堰を切ったように。頬を伝い、顎から食卓に落ちる。母は拭おうとしなかった。ただ微笑んだまま泣いていた。笑顔と涙が同居する顔は、見ていて胸が軋む。
「必ず帰ってきて」
「帰ります」
「必ずよ」
「必ず」
アシュタルは席を立ち、母の隣に膝をついた。小さくなった肩を抱き寄せた。
温かかった。母の体温が、腕の中に伝わってくる。小さな肩が震えている。泣き声は聞こえない。声を殺して泣いているのだ。
——そして、気づいた。
母の体温は確かに温かい。だが、それを感じる自分の手が——鈍い。
右手の指先。感覚が薄い。母の肩に触れているのは分かる。だが、以前のようにはっきりとした温度が伝わらない。布越しに触れているような、膜を一枚隔てたような感触。肩の骨の形は分かる。だが温もりが、遠い。
触覚が、鈍り始めている。
症状が、自分にも来ている。
心臓が冷たくなった。百五十日の期限は家族のためだけではない。自分自身の問題でもある。このまま進行すれば——いずれ何も感じなくなる。母の温もりも、弟の髪の感触も、風の冷たさも。
母を抱く腕に、力を込めた。まだ感じられるうちに。この温もりを、体が覚えているうちに。
「大丈夫です、母さん」
嘘ではない。だが、全てを言ってはいない。商人は嘘をつかない。ただ、言わないことがある。
食事を終えて、弟の部屋に向かった。
ヤリムの部屋は暗かった。小さな油灯が一つだけ灯っている。弟は寝台の端に座っていた。痩せた十四歳の体が、薄い布に包まれて影のように見える。壁には以前描いた船の絵が貼ってある。船乗りになりたいと言っていた頃の絵だ。波と帆と、青い空。
「ヤリム」
弟が顔を上げた。
声が出ない。ヤリムの喉は、もう数ヶ月前から音を発することができなくなっている。だが目は生きていた。大きな黒い目が、兄を見上げる。
アシュタルは弟の隣に座った。寝台が軋む。
「明日、旅に出る」
ヤリムが頷いた。
「遠くまで行く。百五十日くらいかかる」
また頷く。分かっている、という顔だった。母から聞いたのかもしれない。
「お前の声を、取り戻しに行くんだ」
ヤリムの目が揺れた。唇が動いた。声にはならない。だが形は読める。何度も弟の口の動きを読んできた。この数ヶ月で、声がなくても会話ができるようになった。そうならざるを得なかった。
——行ってらっしゃい。
アシュタルの目頭が熱くなった。こらえた。商人は顔に出さない。出したら、負けだ。ここで泣いたら、弟を不安にさせる。
「土産を買ってくる。何がいい?」
軽い調子で言った。声が震えないように、細心の注意を払って。
ヤリムが首を傾げた。考えている。唇が開いて、閉じて、また開いて。そして——口が動いた。
甘いもの。
味覚を失った弟が、甘いものを欲しがっている。舌に甘さは伝わらない。それでも「甘いもの」と言う。味の記憶だけが、まだ弟の中に残っているのだろうか。蜂蜜の甘さ、干し果実のねっとりとした甘さ、市場で買ってもらった焼き菓子の甘さ。舌は忘れても、心は覚えている。それとも——味が分からなくても、甘いものが食べたいという願いそのものが、弟の中で生きているのか。
喉の奥が、締めつけられるように痛んだ。
「分かった。一番美味い甘い菓子を、山ほど買ってくる」
ヤリムが笑った。声のない笑顔。目が細くなり、頬が持ち上がる。以前と同じ——いや、以前より少し大人びた笑顔。四歳年下の弟が、四ヶ月で随分と大人になった。声を失い、味を失い、それでも笑える。その強さが、十四歳の少年にある。
弟の頭を撫でた。髪の感触が——やはり、少しだけ遠い。指先の膜が、弟の髪と自分の皮膚の間に挟まっている。
部屋を出た。
居間に戻ると、母はもう寝室に引き上げていた。食器は片付けられ、食卓だけが油灯に照らされている。鍋は洗われ、匙は棚に戻されていた。いつも通りの片付け。明日もまたこの台所で母が料理を作る。味の分からない料理を。
椅子に座った。帳面を開いた。
百五十日の旅程。取引先の一覧。持ち物の最終確認。数字と文字を並べれば、感情は整理される。商人はそうやって心を保つ。帳面は防壁だ。数字の羅列は、感情を堰き止める。
だが今夜は——数字が滲んで見えた。
帳面を閉じた。
指先を見た。右手の指先。母を抱いた時に気づいた、鈍い感覚。動かしてみる。問題なく動く。だが、帳面の紙の手触りが、ほんの少しだけ薄い。
百五十日。
家族のために。そして——自分自身のために。
夜が、長かった。
眠れなかった。眠る必要がないのかもしれない。死なない体だ。だが、眠れないのと眠らなくていいのは違う。
夜明けの光が、窓から差し込んだ。薄い青。それから橙。ウガルの朝が、また来る。
立ち上がった。
革袋を背負った。帳面を懐に入れ、粘土板が胸に当たるのを確認した。
振り返らなかった。
振り返ったら——行けなくなる。




