友への託し
シャリムの商会は、港から三本目の通りにある。
看板もなければ立派な門構えもない。倉庫を改装しただけの小さな事務所で、棚には帳面が雑然と積まれ、床には梱包用の藁が散らばっている。だがこの雑然さの中にシャリムなりの秩序があるらしく、どの帳面がどこにあるかは本人だけが把握していた。他人には散らかっているようにしか見えないが、シャリムに言わせれば「全部手の届く場所にある。整理する暇があったら商談する」とのことだ。
「よう」
シャリムが奥から顔を出した。日に焼けた丸顔に人懐っこい笑み。アシュタルと同い年だが、体格は一回り大きい。声も大きい。港の競り場で鍛えた声量は、市場の喧騒の中でも通る。商人としての腕は悪くないが、秘密を守る能力に致命的な欠陥がある——というのが、アシュタルの長年の評価だった。
だが、義理堅さだけは本物だ。それは秘密を守る能力の百倍の価値がある。
「聞いたぞ。神と取引するって?」
「誰から聞いたんですか、それ」
「お前の親父さんだよ。今朝、うちに来た」
父か。アシュタルは内心で苦笑した。息子より先に手を打つあたり、さすがは商人だ。後始末の段取りが早い。
「正気か?」
「正気です」
「神だぞ。商売の相手じゃないだろ」
「商談のテーブルに着いた時点で、商売の相手です」
シャリムが目を丸くし、それから大きく笑った。事務所の壁に笑い声が反響する。
「お前はほんとに——変わらないな」
変わらない。そう言われると妙な心地がした。この数日で、世界の見え方が随分変わった気がしていたのだが。神を見た。契約を結んだ。死なない体になった。それでも、シャリムの目には「変わらないアシュタル」が映っているらしい。
「本題に入っていいですか」
「おう」
帳面を開いた。付箋を挟んだ頁には、ベン=シャハル商会の取引先一覧と、現在進行中の商談の概要が並んでいる。昨夜のうちに整理し直したもので、字が小さい分だけ情報は詰まっている。
「留守の間、うちの商売を見てほしいんです」
シャリムの表情が変わった。笑みが消え、真剣な目になる。商人が商人に仕事を託す——それがどれほど重い頼みかを、この男は理解している。帳簿を他人に預けるのは、腹を見せるのと同じだ。
「全部か」
「全部です。帳簿はここに。取引先への説明は、この書簡を渡してください。父の印が押してあります」
一つずつ確認していった。穀物の仕入れ先との継続契約。港の倉庫の使用権。来月に迫った染料の大口取引。父が長年かけて築いた信用の網を、一つずつシャリムの手に預けていく。
「染料の取引は、ハダドの商隊と連携してください。ハダドには話を通してあります。値引きを求められたら二割までは呑んでいい。それ以上は断ってください。穀物は——南の倉庫に三ヶ月分の在庫があります。新規の仕入れは不要。ただし品質の確認だけは毎月——」
「待て待て。書くから待て」
シャリムが慌てて自分の帳面を引っ張り出し、必死に書き留めていく。字が汚い。筆の持ち方が雑で、墨が飛び散っている。だが要点は押さえている。数字を間違えない。それがシャリムの美点だった。
一刻ほどかけて、全ての引き継ぎを終えた。シャリムの帳面は真っ黒になっていた。
「……こんなもんか」
「もう一つ。父の体調のことは、取引先には伏せてください。『長期の仕入れ旅行に出た』で通します」
「分かった」
シャリムが帳面を閉じ、アシュタルを見た。
「で? いつ帰ってくるんだ」
「百五十日以内には」
「百五十日」
シャリムが指を折って数えた。太い指が順番に折れていく。
「……五ヶ月か。長いな」
「長いです」
「その間の利子、きっちり請求するからな」
「利子?」
「お前の商売を預かるんだ。管理手数料だよ。帰ったら耳を揃えて払ってもらう」
アシュタルは笑った。これがシャリムだ。どんな場面でも商売の話に落とし込む。感傷を数字に変換する。それが商人同士の友情の形だった。涙より帳面。抱擁より握手。それで十分だ。
「法外な利率は勘弁してください」
「お前が無事に帰ってくりゃ、利率は相談に乗ってやるよ」
軽口の応酬。だがその底に流れているものを、互いに分かっていた。
シャリムとは十二の頃からの付き合いだ。同じ市場で値切り合い、同じ波止場で荷を担ぎ、同じ酒場で——酒はまだ早かったが——大人たちの商談を盗み聞きした。商売のやり方は全く違う。シャリムは声が大きくて押しが強い力技の商人。アシュタルは口が回って読みが深い頭脳派。水と油のようでいて、互いの弱点を補い合える。シャリムが押し切れない相手はアシュタルが口で落とし、アシュタルが相手にされない場面ではシャリムが体を張る。六年間、そうやってきた。
だからこそ、託せる。
帳面を全てシャリムに渡し、立ち上がった。
「じゃあ、頼みます」
「おう」
入口に向かった。背中にシャリムの声がかかる——と思った。だが、かからなかった。
振り返ると、シャリムが立ち上がっていた。丸顔から笑みが消えている。冗談を言う顔ではなかった。
「アシュタル」
声の調子が違った。軽口の声ではない。港の競り場で鍛えた大きな声ではなく、低い、静かな声。
「一つだけ」
シャリムの目が、まっすぐにアシュタルを見ていた。
「帰ってこい」
軽口ではなかった。
商売の比喩もない。利子の話もない。ただ、その四文字だけが、倉庫のような事務所の中に響いた。藁の散らばった床と、乱雑に積まれた帳面と、墨の染みがついた机。その中で、友の声だけが嘘のように澄んでいた。
アシュタルの喉が、一瞬だけ詰まった。
「——必ず」
それだけ言って、事務所を出た。
通りに出ると、午後の陽射しが目に染みた。港の方から潮風が吹いている。魚売りの声、荷車の音、子供たちの笑い声。ウガルの日常。
商売は託した。友は待っている。
帰る場所がある。
それは百五十日の旅を支える、目に見えない錘だ。革袋には入らないが、確かに重みがある。足を前に進めるための重み。引き返すための重み。
足を家に向けた。
あとは——家族への別れだけだ。
それが、全ての荷物の中で一番重い。




