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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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旅支度

 荷造りは、商人にとって戦支度と同じだ。


 ただし、剣の代わりに天秤を詰め、鎧の代わりに帳面を入れる。


 アシュタルは自室の床に革袋を広げ、持ち物を一つずつ並べていった。


 帳面が三冊。一冊は取引記録用。一冊は旅程と情報の整理用。最後の一冊は——白紙のまま。何に使うかはまだ決めていない。ただ、白紙の帳面があると落ち着く。何が起きても書き留められる。商人のさがだ。


 筆記具。あしの筆と墨壺すみつぼ、予備の尖筆せんぴつ。粘土板に刻むための道具と、帳面に書くための道具。二系統を持つのは、神との取引と人間との取引の両方に備えるためだ。昨日の本契約で学んだ。神は粘土板に刻む。人間は帳面に書く。両方の言語を操れなければ、仲介者は務まらない。


 小さな天秤。掌に載るほどの折り畳み式で、父から譲り受けたもの。真鍮しんちゅうの皿が二枚、絹糸で吊るされている。分銅ふんどうは五種類。金属の純度を量るにも、香辛料を量るにも使える。父は「天秤を疑え、だが天秤なしに商売はするな」と言った。


 度量衡どりょうこうの換算表。地域ごとに単位が違う。ウガルのシェケルと内陸のミナ、エジプトのデベン。これを頭に入れておかなければ、初歩の取引でも足元を掬われる。


 交易品。これが肝だ。


 小型で高価値のものを選んだ。瑠璃るりの粒が十二個。ウガルの港で仕入れた良質なもので、深い青が光を受けて輝く。内陸では三倍の値がつく。紫の染料を染み込ませた布の端切れが五枚。ティルス産の紫は、どの街でも通貨代わりになる。乳香にゅうこうの欠片が掌一杯分。神殿への供物としても、薬としても売れる。甘い樹脂の匂いが革袋に移らないよう、蝋で密封した小壺に入れた。


 換金用の銀の粒。情報を買うための、もう少し小さな銀。路銀としては心許ないが、交易品を売りながら進めば足りるはずだ。


 そして——二枚の粘土板。仮契約と本契約。これだけは交易品ではない。売り物にならない。値段のつけようがない。


 荷物を革袋に詰め終えると、部屋の入口に気配を感じた。


 振り返ると、赤い髪の女神が入口の柱にもたれていた。いつ来たのか分からない。足音がしなかった。戦の女神は気配を消すのが上手い——というより、人間の家に訪ねてくるという発想自体がこの女神には希薄なのだろう。来たい時に来る。神とはそういうものらしい。


「なんですか」


「見に来ただけだ」


 アナトの金色の目が、床に並べた荷物を一瞥した。眉が持ち上がる。


「お前はそれで戦うのか」


「商人は天秤と帳面で世界と渡り合います」


「……天秤で殴るのか?」


「殴りません」


「なら何の役に立つ」


「物の値段を正しく量ることは、剣を振るうより難しいこともあります。相手の持っているものの価値を見抜いて、自分の持っているものと交換する。それが商人の戦い方です」


 アナトが鼻を鳴らした。だが、それ以上は何も言わなかった。荷物に剣がないことを嘲るでもなく、鎧がないことを咎めるでもなく。ただ、物珍しそうに眺めていた。数千年、剣と神力で戦い抜いてきた存在にとって、天秤と帳面は異国の武器のように見えるのかもしれない。


「旅程の話をしてもいいですか」


 帳面を開いた。昨夜のうちに書き上げた初案がある。


「ウガルからツァフォン山まで、最短ルートは砂漠を北東に突っ切る道です。およそ二十日。ですが、僕はこちらを推します」


 もう一つのルートを指で辿たどった。


「海沿いに北上して、ビュブロスを経由。そこから内陸に入ってツァフォン山へ。三十日かかります」


「十日も余計にかかる。最短で行け」


「最短ルートには水場が三箇所しかありません。僕は人間なので、水がないと死にます」


「……」


「それに、ビュブロスには大きないちがあります。道中の情報を集められる。バアルの手がかりになるものが見つかるかもしれない。噂話一つが商談の糸口になることは珍しくありません。商人の街を経由しながら情報を集めるのが、僕の旅のやり方です」


「情報を集める、か」


「ええ。道中で稼ぎながら進むのが商人の旅です。瑠璃をビュブロスで売れば、次の区間の路銀が手に入る。情報を買う銀も確保できる。旅の途中で資金が尽きるのは、戦場で矢が尽きるのと同じです」


 アナトが黙った。戦の比喩を使ったのは計算だった。この女神には、商売の論理より戦の論理で説明した方が通じる。


「……ならば、三十日の道を二十五日で歩け。五日は縮める」


「交渉成立です」


 アナトが舌打ちした。だがその舌打ちは、もう以前のように苛立ちを含んでいなかった。むしろ——呆れと、ほんの少しの面白がりが混じった音。二人の間に、以前にはなかったリズムが生まれつつある。


「お前と話していると、いつの間にか商談になっている」


「それは僕の得意分野なので」


 旅程が決まった。二十五日でツァフォン山を目指す。海沿いの道を北上し、ビュブロスで情報と物資を補給し、内陸へ。


 荷造りの最後に、懐から二枚の粘土板を取り出した。仮契約と本契約。布に包み、革袋の一番奥——体に近い側に入れた。荷を降ろしても、この二枚だけは常に体から離れない位置に。


 アナトがそれを見ていた。


「大事にするな、粘土の板切れを」


「これが今の僕の全財産です」


「……全財産」


 アナトが小さく繰り返した。何千年も生きた神にとって、粘土板二枚が「全財産」という感覚は、きっと理解できないのだろう。神にとって財産とは何だ。力か、領域か、信仰か。少なくとも、粘土の板ではないはずだ。


 だが、それでいい。


 商人の全財産は、金でも品物でもない。約束だ。果たされるべき契約が、商人を商人たらしめる。


 革袋の口を縛った。持ち上げると、ずしりと重い。天秤と帳面と交易品と銀と、二枚の契約書。冒険者なら剣と盾を背負うところだ。アシュタルが背負うのは、帳面と天秤と約束。


 荷物は揃った。


 あとは——人に別れを告げるだけだ。


 それが一番重い荷物だということを、アシュタルは知っていた。革袋には入らない。背中には載らない。胸の中にだけ、ずっしりと沈む荷物。


 窓の外では、夕陽がウガルの街並みを赤く染めていた。明日は友に会いに行く。そして——家族に、最後の挨拶を。


 革袋を部屋の隅に置き、帳面を閉じた。


 出発まで、あと二日。


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