本契約
三つの条件のうち、アナトが飲まなかったものはない。だが、交渉はそこで終わりではなかった。
「追加条件がある」
アナトが腕を組んだまま言った。朝陽が壁の隙間から差し込み、赤い髪を燃えるように照らしている。廃倉庫の埃っぽい空気の中で、女神の姿だけが妙に鮮やかだった。
「どうぞ」
「私の指示には従え。死にたくなければ」
アシュタルは一拍だけ間を置いた。それから、口の端を持ち上げた。
「死なない体でその脅しは効きませんよ」
沈黙が落ちた。
アナトの金色の目が、一瞬だけ見開かれた。そして——声が響いた。
笑い声だった。
鼻で笑うのではない。喉の奥から、短く、だが確かに声を出して笑った。廃倉庫の石壁に反響して、乾いた音が消えていく。
アシュタルの心臓が跳ねた。
この女神が声を出して笑うのを、初めて聞いた。鼻で笑う。舌打ちする。嘲る。それは何度もあった。だがこれは——違う。戦場のように張り詰めた空気の中で、不意に風穴が開いたような音だった。
「……口だけは達者だな」
アナトは笑いの余韻を消すように顔を背けた。だが口元がまだわずかに緩んでいるのを、商人の目は見逃さなかった。
「では、追加条件を受け入れます。ただし、一つ但し書きをつけさせてください」
「何だ」
「『死にたくなければ』ではなく、『生きて帰りたければ』に変更を。僕は死なない体ですが、帰る場所があります」
アナトが視線を戻した。金色の瞳が、何かを探るようにアシュタルの顔を見た。「帰る場所」という言葉に、何かが引っかかったように。
「……好きにしろ」
合意。
アシュタルは新しい粘土板を木箱の上に置き、帳面から条件の一覧を読み上げた。一条ずつ確認し、合意を取る。商談の基本だ。神が相手だろうと、手順は変わらない。条件を曖昧にしたまま握手する取引は、必ず後で揉める。父から叩き込まれた鉄則だった。
「では、刻みます」
尖筆を取り出した。粘土板の左側に、人間の文字——ウガリットの楔形文字で、契約の条項を一つずつ刻んでいく。尖筆が柔らかい粘土に沈む感触が、指先に伝わった。
第一条。バアルとの直接交渉権。
第二条。旅程における護衛義務。
第三条。百五十日の期限。
追加条件。アナトの指示への服従義務。但し、生存に関わる判断は例外とする。
刻み終えて、筆を置いた。粘土板の左半分が、細かな文字で埋まっている。
「あなたの番です」
アナトが壁から離れ、木箱の前に立った。
右手の人差し指を粘土板の上にかざした。指先が淡く光った——赤い光だ。戦の紋様が腕に浮かび上がり、指先に集束する。光が粘土板の表面を舐めるように広がった。
その指が、粘土板の右側に触れた。
光が走った。人間の目では追えない速さで、神の文字が粘土に刻まれていく。アシュタルの楔形文字とは全く異なる、流れるような曲線の連なり。直線と角で構成された人間の文字に対して、神の文字は水が流れるように滑らかだった。同じ内容を、神の言葉で記しているのだろう。
数秒で、右半分が埋まった。
一枚の粘土板に、人間の文字と神の文字が並んでいる。左に角ばった楔形文字、右に流麗な神の文字。まるで二つの世界が、小さな粘土の板の上で隣り合っているようだった。
アナトが粘土板を見下ろしていた。その表情が——ほんの一瞬だが、変わった。
「……こうして並ぶのを見るのは、初めてだな」
低い声だった。独り言のように。
「人間の文字と、神の文字が、一枚の粘土板に」
アシュタルは何も言わなかった。言葉を挟むべき場面ではないと、商人の勘が告げていた。沈黙にも値段がある。今この沈黙は、どんな言葉より高い。
アナトの金色の目が、粘土板の上を行き来した。左の人間の文字。右の神の文字。その境界線を、視線がなぞる。
「……前例がない」
呟くように言って、アナトは手を引いた。
前例がない。それは単なる事実の指摘だったのだろう。だが廃倉庫の静寂の中で、その言葉は奇妙な重さを持った。何千年も生きた神が「初めて」と言うのは、人間の「初めて」とは桁が違う。千年の歴史を振り返って「なかった」と言っているのだ。
粘土板を手に取った。両面に文字が刻まれた小さな板。重さはほとんどない。だがこれが今、アシュタルとアナトを繋ぐ唯一の鎖だった。
「本契約、成立ですね」
アシュタルは粘土板を掲げた。朝陽が表面を照らし、二種類の文字が同時に光を受ける。人間の文字は影を落とし、神の文字はわずかに赤く光った。
「では、改めて。——よろしくお願いします。アナト」
名前を呼んだ。取引相手としてではなく。これから百五十日を共に旅する、同行者として。
アナトは壁にもたれ、腕を組み直した。視線は窓の外——廃倉庫の隙間から覗く青空に向いている。
「……ふん。足を引っ張るなよ、商人」
商人。「人間」ではなく「商人」。呼び方が変わっている。意識してのことか、無意識か。どちらにせよ、これは進歩だった。
アシュタルは粘土板を布で丁寧に包み、懐に仕舞った。仮契約の粘土板の隣に。二枚の契約書が、胸の内側で静かに重なった。
「契約書は商人の命です」
「……お前は本当に、何でも商売に結びつけるな」
「褒め言葉として受け取ります」
軽口の応酬。だが以前とは何かが違う。以前は、言葉の端に棘があった。互いの出方を探る緊張があった。今は——まだぎこちないが、棘が丸くなっている。
契約は成立した。
明日から出発準備に入る。百五十日の旅。ツァフォン山を目指し、バアルの手がかりを追う。その道中で何が待っているかは分からない。
だが契約書はある。
商人にとって、契約書があるということは、道があるということだ。たとえ見えなくても、約束が道を作る。
廃倉庫を出ると、ウガルの朝が広がっていた。港の方から潮の匂いが風に乗って届く。魚売りの声。荷車の軋み。いつもと変わらない朝。
だが明後日には、この朝を離れる。
懐の粘土板に手を当てた。二枚分の重み。小さく、硬く、確かな感触。
百五十日。
家族を待たせられる、最後の猶予。
足を速めた。やるべきことは、まだ山のようにある。




