アナトへの条件
アナトは街外れの廃倉庫に逗留していた。
人間の宿は嫌だと言い張った結果がこれだ。埃っぽい石壁と、崩れかけた天井と、かつて穀物が積まれていた棚の残骸。神の住まいとしては威厳のかけらもないが、アナトは気にしていないようだった。戦場で野営するのと変わらないのだろう。
朝陽が壁の隙間から差し込んでいる。埃が光の筋の中で舞っていた。
アシュタルは入口で足を止め、懐から二枚の粘土板を取り出した。一枚は仮契約のもの。もう一枚は、昨夜自分で焼き上げた新しい粘土板。まだ表面に何も刻まれていない。
「アナト」
廃倉庫の奥から、赤い髪が揺れた。石の上に腰掛けていた女神が、金色の目でこちらを見た。朝の光の中でもあの瞳は暗がりのように鋭い。
「何の用だ。朝から騒がしい」
「商談です」
アシュタルは仮契約の粘土板をテーブル代わりの木箱の上に置いた。その横に、新しい粘土板を並べる。
「本契約の条件を提示します」
アナトの眉が持ち上がった。腕を組み、壁にもたれたまま動かない。だが視線は粘土板に落ちた。
「提示する、か。人間が神に条件を出すと」
「仮契約の時もそうしました。今回はその更新です」
「ふん。好きにしろ」
許可が出た——正確には、興味がないから勝手にやれという態度だ。だがテーブルに着いたことに変わりはない。商談は、相手が席についた時点で半分成功している。
帳面を開いた。
「条件は三つです」
第一条。
「バアルに会わせてください。印の解除は、バアルと僕が直接交渉します」
「当然だ。私がバアルの代理で契約を結ぶ権限はない」
「では合意ですね」
あっさりと通った。だが当然だ。この条件はアナトにとっても望むところだ。バアルに会う——それが彼女の目的でもある。
第二条。
「旅の間、僕の護衛をお願いします」
アナトの目が細くなった。
「護衛?」
「僕は戦えません。剣も持てないし、走るのだって長くは続かない。道中で何かあれば、五秒で死にます。僕が死ねば契約は無効になる。つまり、僕の生存はあなたの利益でもある」
「……私にお前の世話をしろと」
「世話ではなく投資です。僕という商品が旅の途中で壊れたら、あなたの利益もゼロになる。合理的な判断として護衛を依頼しています」
アナトが鼻を鳴らした。侮蔑ではなかった。むしろ呆れに近い。人間が自分の弱さを堂々と取引材料にしてくることが、理解の外にあるのだろう。
「商人とはそういうものか。自分の弱さを売り物にするのか」
「弱さも正しく値づけすれば資産になります」
アナトの口元が一瞬だけ動いた。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「……いいだろう。壊れられては困る」
第二条、合意。
第三条。
「百五十日の期限を設けます。この日数を超えて帰還できなかった場合、契約は無効とします」
ここで初めて、アナトの表情が変わった。
「百五十日?」
「はい」
「足りるものか」
即答だった。アナトが壁から背を離し、一歩前に出た。
「バアルの居場所は分かっていない。ツァフォンに手がかりがあるかもしれないという程度だ。そこから追跡が必要になる。百五十日で足りると本気で思っているのか」
「足りないかもしれません。ですが、これが僕に与えられた時間の上限です」
「誰に与えられた」
「父に」
アナトが一瞬、黙った。
「一族の症状が進行しています。百五十日が、家族を待たせられる限界です。それ以上は——父がモトの条件を受け入れます。僕が帰っていなくても」
廃倉庫の中に沈黙が降りた。埃が光の中をゆっくりと舞い続けている。
アナトの金色の目が、アシュタルを見据えていた。何かを測っているようだった——値踏みではない。もっと深い、何かの芯を探るような視線。
「お前は」
アナトが低い声で言った。
「百五十日で足りなければ、家族がモトの手に落ちると知った上で、この取引を提案しているのか」
「はい」
「なぜだ。モトの条件を飲んで、安全に生き延びる道もあるだろう」
「生き延びるだけでは、足りないからです」
アナトの目がわずかに揺れた。一瞬のことだった。すぐに厳しい表情に戻る。
沈黙が流れた。
アナトが踵を返し、壁際に戻った。石の上に座り直し、腕を組む。
「なら、間に合わせてください」
アシュタルは言った。
命令ではない。懇願でもない。対等な、依頼。
「百五十日で、バアルのもとに辿り着く。そのために、あなたの力が必要です。女神様」
最後に「女神様」をつけたのは、敬意ではなく挑発だった。アナトがこの呼び方を嫌うことは知っている。慇懃無礼な敬称は、神の誇りをくすぐるのではなく逆撫でする。
案の定、アナトの眉が吊り上がった。
「——その呼び方をやめろと言ったはずだ」
「では、何とお呼びすれば」
「アナトでいい。……前からそう呼んでいるだろう」
「商談の席では正式な呼称を使うのが礼儀かと思いまして」
「ふん」
アナトが視線を逸らした。廃倉庫の天井を見上げ、崩れた梁の隙間から覗く青空を睨む。
そして——口元が、かすかに持ち上がった。
鼻で笑うのとは違う。嘲りでもない。
「……いいだろう。面白い取引だ」
アシュタルの心臓が跳ねた。
「面白い」。アナトがこの言葉を使ったのは初めてだった。これまでは「ふん」か「好きにしろ」か「口を慎め」だった。利用価値を認めた。それは以前からだ。だが「面白い」は——取引そのものへの興味だ。
本契約は、まだ成立していない。条件は提示された。合意の方向も見えた。だが粘土板に刻まれるのは、これからだ。
「では、詳細を詰めましょう」
アシュタルは帳面の新しい頁を開き、筆を構えた。
「出発は明後日。旅程の初案を作りました。まずツァフォン山を——」
「ごちゃごちゃ言うな。歩けば着く」
「歩けば着くで商売ができたら、商人は廃業です」
アナトが舌打ちした。だがその舌打ちに、以前のような棘はなかった。
テーブルに着いた。
本契約の交渉は——まだ始まったばかりだ。だが、確かに始まった。仮契約の粘土板の横で、新しい粘土板が朝陽を受けて白く光っている。まだ何も刻まれていないその表面が、これから刻まれる言葉を待っていた。
アナトの「面白い」は、これまでのどの言葉とも違う温度を持っていた。それが何を意味するのかは、まだ分からない。
分からないが——商人の勘が、この取引は悪くないと囁いていた。




