もう一つの理由
夜の港は、昼とは別の顔をしている。
昼間は声と色と匂いで溢れかえる桟橋が、日が落ちると潮の音だけの世界になる。停泊した商船の帆が風を受けて低く唸り、係留索が軋む。桟橋の杭に括りつけられた灯籠が橙色の光を水面に落とし、波がそれを揺らしていた。
アシュタルは桟橋の端に座り、足を海の方に投げ出していた。
サンダルの底に潮の湿気が染みる。風が運んでくるのは塩と、干した魚の匂いと、遠くの酒場から漏れる歌声。この匂いを嗅がない日はなかった。生まれてから十八年、ウガルの港はいつもここにあった。
明後日、この街を出る。
帳面は懐にある。百五十日の期限。父との契約。旅程の見積もり。全て数字に落とし込んだ。不確実なものを可能な限り数字で縛り、残った余白を「運」と名づけて胸にしまった。商人にできる準備は、全てやった。
だが今、帳面を閉じたこの夜の港で、数字では捉えきれないものが胸の奥で蠢いている。
家族のため。
それは本当だ。ヤリムの味覚を取り戻す。母の笑顔を守る。一族を「生ける死人」の運命から解放する。それが全ての始まりだった。
だが——本当にそれだけか。
波が桟橋の杭を洗う音を聞きながら、アシュタルは自分の胸に問いかけた。商人は自分に嘘をつかない。帳簿を誤魔化す商人は最後に破産する。それは自分の感情の帳簿でも同じだ。
アナトと仮契約を結んだ夜を思い出す。
あの時、恐怖はあった。目の前にいるのは戦争の女神だ。人間を虫けらほどにも思わない、数千年を生きた殺戮の化身。膝が笑い、声が震え、冷や汗が背中を伝った。
だがその恐怖の裏側に——何があった。
高揚だ。
帳面の端に数字を並べ、条件を組み上げ、女神の表情を読みながら言葉を選んだあの時間。二度と味わえないと思っていた、あの痺れるような緊張。競り場でティルスの商人を相手にした時の百倍の密度で、頭が回転していた。
怖かった。だが同時に、面白かった。
商人の血が、新しい取引先を嗅ぎつけた瞬間の興奮。それが間違いなく、あの夜の自分の中にあった。
モトの使者と対峙した時もそうだ。死の気配に肌が粟立ち、本能が逃げろと叫んでいた。それでも口が回った。言葉が出た。条件を引き出し、時間を稼ぎ、交渉のテーブルを維持した。あれは家族を守るためだった——それは嘘ではない。
だがそれだけでもなかった。
神を相手に商談をしている。
その一点が、アシュタルの中の何かを震わせていた。
人間の商人が、神と取引する。誰もやったことがない。どんな大商人も、どんな名うての交渉人も、やったことがない。港の競り場で値切るのとは桁が違う。相手は世界の理を動かす存在で、賭けの対象は銅貨ではなく命で、契約書は羊皮紙ではなく粘土板に刻まれる。
そしてアシュタルは——その取引を、成立させかけている。
恐怖は経費だ。払えるうちは払う。だが経費を払ってでもこの取引を続けたいと思っている自分がいる。それは家族への愛とは別の、もっと生臭い感情だった。
野心だ。
商人の野心。前人未到の取引を成立させたいという、腹の底から湧き上がる渇望。
アシュタルは自分の手を見下ろした。小さな手だ。剣も槍も持てない。この手にあるのは筆と帳面だけ。だがこの手で、神の言葉を記録し、契約条件を書き出し、交渉の席を作った。
自分にしかできないことがある。
その確信が、波の音に混じって胸の奥で響いた。
神々の世界に商取引の原理を持ち込める人間は、他にいない。バアルとモトの間で宙に浮いた契約を再交渉できる人間は、他にいない。印を持ち、交渉の技術を持ち、神の言葉を理解し、それでいて人間の側に立てる者は——少なくとも今のこの世界には、アシュタルしかいない。
傲慢だろうか。
いや、違う。これは傲慢ではない。自分の商品の価値を正確に見積もっているだけだ。過大評価でも過小評価でもない。市場に他に出回っていない商品を持っている——それだけのことだ。
波が大きくうねった。船の帆がばたりと鳴る。
家族を救うため。それが一つ目の理由。
そして——神々の世界に、商人として乗り込むため。これが二つ目の理由だ。
どちらか片方だけなら、きっと足が竦んだ。家族のためだけなら恐怖に押し潰されていた。野心だけなら無謀に走って死んでいた。両方あるから、怖くても立てる。立って、歩ける。
アシュタルは立ち上がった。
サンダルの砂を払い、港を振り返った。丘の上にウガルの街が広がっている。灯りの点々が星のように散らばり、その向こうに父の書斎の窓がある。さらに奥に、ヤリムが眠る部屋がある。
「行ってくる」
誰に言うでもなく呟いた。
「必ず帰る」
風が言葉を攫って、海の方へ運んでいった。
明日、アナトに本契約の条件を出す。
商人が神と取引する。前代未聞の取引が——始まる。




