期限は百日
「百日だ」
父の声に迷いはなかった。
アシュタルは帳面の上に走らせていた筆を止めた。百日。数字がそのまま喉に詰まったような感覚があった。
「根拠を聞かせてください」
「ヤリムだ」
タグムが棚から別の帳面を取り出した。見覚えがある。父が毎晩つけている記録帳だ。商品の出納ではない。家族の容態を記したものだった。
「味覚の喪失が始まったのは四十日前。嗅覚の減退が始まったのが二十日前。進行は加速している」
帳面が開かれた。日付と症状が几帳面な文字で並んでいる。タグムらしい正確さだった。
「このまま進行が加速すれば、百日で触覚に達する。触覚を失えば——歩くことも、物を持つことも、自分の体がどこにあるかを感じることもできなくなる。そうなってからでは遅い」
数字は嘘をつかない。帳面の記録が示す曲線は明らかに上向きだった。進行は等速ではなく、加速している。
「百日では足りません」
アシュタルは自分の帳面を開いた。昨夜から組み上げた旅程の見積もりだ。
「バアルの最後の目撃情報があるのはツァフォン山の方角です。ウガルからツァフォンまで、陸路で最低四十日。情報収集と交渉の準備に二十日。バアルとの交渉自体に——読めませんが、最短でも十日は見る必要がある。帰路にまた四十日。合計すると、最低百十日。それも全てが順調に進んだ場合の数字です」
「百十日でも足りないのか」
「余裕がありません。道中で何が起こるか分からない。砂嵐、盗賊、予期しない障害。さらにバアルの居場所がツァフォンとは限らない。ツァフォンは出発点に過ぎず、そこから追跡が必要になる可能性もある。百三十日は最低限必要です」
「百三十日では、ヤリムが持たない可能性がある」
「可能性です。確定ではない」
「確定を待っていたら手遅れだ。さっきお前が言ったことだぞ」
自分の言葉を返された。アシュタルは唇を噛んだ。父はこういう男だ。交渉の最中に相手の論理を拾い上げ、武器に変える。血は争えない——いや、争っているからこそ、互いの手口が読める。
「ならば」筆先が震えるのを抑えた。「間を取りましょう。百五十日」
「百五十は百三十より長い。理由を出せ」
「旅程の余裕分です。不測の事態に対応する期間を二十日。商人が見積もりに余白を入れないのは、破産への近道です」
「ヤリムの症状が百五十日持つ保証は」
「ありません。しかし——」
言葉を切った。帳面の数字を指で辿る。父の記録帳と自分の旅程表を、頭の中で突き合わせた。
「父さんの記録によれば、進行速度には波があります。加速期と停滞期がある。直近は加速期ですが、その前に二十日間の停滞期があった。今の加速が永続するとは限らない」
タグムが記録帳を手に取り、数字を確認した。目が細くなる。息子の観察が正しいことを認めた——声には出さないが、算盤の珠を弾く手が止まったことで分かった。
「百五十日」
父が呟いた。数字を舌の上で転がすように。
「百五十日か」
沈黙が落ちた。書斎の窓から朝の光が差し込み始めている。一晩中話していたわけではない。だが商談の密度が、時間の感覚を歪めていた。
「条件をつける」
タグムが言った。
「聞きます」
「百五十日を一日でも過ぎたら、モトの条件を飲む」
予想していた条件だった。当然だ。期限のない猶予は猶予ではない。
「分かりました」
「まだ終わっていない」
父の目が、鋼のように硬くなった。
「お前が帰らなくても——だ」
息が止まった。
言葉の意味を、頭が処理するのに一拍かかった。百五十日が過ぎて、アシュタルが戻っていなければ——たとえ旅の途中で何かあったとしても——父はモトの条件を受け入れる。息子の帰還を待たず、判断する。
それは父親としてではなく、一族の長としての宣言だった。
「……分かりました」
声がかすれた。分かっていたはずだ。父がそう言うことくらい。商人は感傷で期限を延ばさない。タグムは三十年、そうやって商会を守ってきた。
「では、契約は成立ですね」
帳面に書いた。期限:百五十日。初日:明後日。
タグムは算盤の珠をすべて元の位置に戻した。盤面が白紙に戻る。次の計算のために。
そして——不意に、父の手がアシュタルの肩に置かれた。
大きな手だった。荷を担ぎ、帳面を繰り、家族を抱きしめてきた手。その手が、息子の肩を一度だけ強く握った。
「帰ってこい」
商人の声ではなかった。父親の声だった。
アシュタルは頷いた。言葉を返せなかった。返せば崩れる。ここは商談の席だ。泣くのは契約違反だ。
書斎を出た。廊下で壁に背をつけ、目を閉じた。
百五十日。約五か月。
帳面を開き、改めて書き込んだ。期限:百五十日。初日:明後日。
足りるだろうか。足りなければ——父は息子を待たずに決断する。ヤリムも、母も、一族の全員が、モトの手に渡る。
帳面を閉じた。指先が、微かに震えていた。




