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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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父との取引

 書斎の扉を叩いた。


 三回。間隔を均等に。商談の約束がある時と同じ叩き方だ。父はこの音の違いを聞き分ける。家族の用事で来たのか、仕事の話をしに来たのかを、たった三回の拍で判別する。


「入れ」


 重い声が返った。アシュタルは扉を開けた。


 書斎は香木こうぼくの匂いがした。砂漠の向こうから仕入れた白檀びゃくだんを父は好む。贅沢ではない。香木は商品であり、その品質を常に鼻で確認しているだけだと本人は言い張るが、三十年同じ香を焚いているのだから、もう好みの問題だ。


 父タグムは机に向かっていた。帳簿を広げ、算盤そろばんの珠を弾いている。日焼けした大きな手。指の関節が太い。若い頃に自ら船に乗り、荷を担いだ手だ。顔を上げた。深い皺の奥にある目が、息子を射た。


「取引の話か」


 座れとも言わず、用件を訊く。商人の書斎は世間話をする場所ではない。


「はい」


 アシュタルはテーブルの向かいに座った。食卓ではなく、客人を迎える商談用の椅子。その選択を、父は黙って見ていた。


 帳面を取り出し、テーブルに置いた。


「父さん。モトの条件について、対案を持ってきました」


 タグムの眉がわずかに動いた。怒りではない。興味だ。


「聞こう」


「モトの条件を受けるのは構いません。ただし、僕にも期限をください。その間にバアルを見つけられなければ、モトの条件を飲みます」


 言い切った。声が震えないように腹に力を入れた。


 沈黙が落ちた。書斎の隅で香木がじりじりとくゆっている。


「バアルを見つけるあてがあるのか」


 父の声は平坦だった。感情を排した、査定の声。


「あてはあります。ただし、確実ではありません」


「何だ」


「アナトです。戦争の女神がバアルを探しています。彼女と組めば——」


「神と組む。お前が」


 タグムの目が細くなった。嘲笑ではない。値踏みだ。目の前の商品——息子の言葉に、どれだけの裏付けがあるかを測っている。


「アナトは仮契約を結んでいます。僕が持つ印はバアルに繋がる手がかりになる。彼女には武力と情報がある。僕には印と交渉力がある。互いに足りないものを補い合える取引です」


「不確実だな」


「はい」


「不確実なものに、家族の命を賭けるのか」


 帳面を押さえる指先に力が入った。ここだ。ここが分水嶺ぶんすいれいだと分かっていた。


「確実なものに、家族の魂を賭けるよりはましです」


 父の目が、初めてわずかに見開かれた。


「モトの条件は確実です」アシュタルは帳面を開き、書き込んだ数字を父に向けた。「一族の生存を保証する代わりに、魂の帰属権をモトに移す。確かに——確実だ。だがこれは債務の借り換えに過ぎません。債権者がバアルからモトに変わるだけで、一族は永遠にどちらかの神に縛られ続ける」


「それの何が悪い。生きていられるなら——」


「生きているだけでは足りません」


 声が大きくなった。抑えた。商談で声を荒げるのは三流だ。


「ヤリムは味覚を失いました。このまま進行すれば、嗅覚も、触覚も失う。モトの条件を飲めば生存はする。でも、あの子が魚の味も風の匂いも分からないまま百年生きることを——父さんはそれを『生きている』と呼びますか」


 沈黙が重かった。書斎の空気が詰まったように動かなくなった。


 タグムは算盤の珠を一つ、指先で動かした。意味のない動作だった。考えている時の癖だ。


「根拠を出せ。アナトと組めばバアルに辿り着けるという根拠を、数字で」


「神殿保管庫で見つけた文書の断片。バアルが一族と個別契約を結んでいた記録。アナトですらこの事実を知らなかった。つまり、バアルは一族との関係を他の神に隠していた。隠す理由がある契約は、バアルにとっても重要だったということです。重要な契約の相手を、バアルが完全に切り捨てるとは考えにくい」


「推測だ」


「商売は推測で動きます。確定を待っていたら船は出ません」


 父が、低く息を吐いた。


 長い間があった。香木の煙が天井に向かって細い線を描いている。


 タグムが立ち上がった。壁の棚から、古い巻物を一本取り出す。商会の船出記録だ。何十年分もの航海の記録が納められている。


「三十年前」タグムは巻物を開かずにテーブルに置いた。「ティルスとの交易路を開いた時、成功の見込みは二割もなかった。嵐の季節に小舟で海峡を越えるような話だった」


 アシュタルは黙って聞いた。


「お前の母親に怒鳴られた。死にに行くのかと。だが俺は行った。勝算が薄くても、行かなければ商会が潰れる状況だったからだ。——帰ってこられたのは運だ。実力じゃない」


 父の目が、息子を見た。


 これまでの値踏みの目ではなかった。


「お前の目に、あの時の俺と同じものが見える」


 タグムがテーブルに両手をついた。


「期限はつける。それが商売の鉄則だ」


 息子ではなく、同じ商人を見る目だった。


 アシュタルの胸の奥で、何かが軋んだ。嬉しいのか苦しいのか分からなかった。認められた。だがそれは同時に、父がこの取引の危険を正確に理解しているということでもあった。


「期限はいくつだ」


「——できるだけ長く」


「甘いな」


 父が即座に切り返した。


「数字を出せ」


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