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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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商人の問い

 帳面を開いた。


 油灯の明かりが羊皮紙の上に揺れる円を描いている。外はまだ暗い。窓の向こうで波の音だけが規則正しく繰り返され、ウガルの街は眠りの底に沈んでいた。


 アシュタルは筆を取り、新しい頁の冒頭にこう書いた。


 ——契約の更新か、破棄か。


 昨夜得た情報を頭の中に並べ直す。バアルと一族の間に古い契約がある。バアルがいなくなったことで契約は宙に浮き、一族は代償だけを払い続けている。モトの条件は一族の生存を保証する代わりに魂を差し出せというもので、つまりは身代わりの債務引き受け——別の債権者に借り換えるだけだ。


 利息が変わるだけで、元本は減らない。


 商人として最悪の取引だ。帳面にはっきりそう書きつけた。


 では、どうする。


 筆先が紙の上を走る。選択肢は二つ。契約の更新か、破棄か。


 まず更新の場合。バアルを見つけ、新しい条件で契約を結び直す。一族が払っている代償——味覚の喪失、感覚の希薄化、影の消失——を適正なものに修正する。あるいは代償そのものを解除する。


 帳面の右側に「更新」と書き、その下に条件を箇条書きにした。


 第一に、バアルの所在が判明すること。アナトが探しているという事実は、裏を返せば女神の力をもってしても見つかっていないことを意味する。難易度は高い。だがアナトは単身で探していた。人間の情報網と組み合わせれば可能性は変わる。


 第二に、バアルが交渉に応じること。神が人間の要求を聞くかどうか。だが帳簿の記録が示す通り、バアルには一族との契約の前例がある。少なくとも「話が通じない相手」ではない。


 第三に、新しい条件が一族にとって受け入れ可能であること。ここは交渉次第だ。商人の領分であり、アシュタルが最も力を発揮できる場面になる。


 一つ一つの条件に実行可能性を書き添えた。難しいが、不可能ではない。帳面の数字が示すのは、薄いが確かに存在する道筋だった。


 次に、破棄の場合。


 帳面の左側に「破棄」と書いた。


 印そのものを消す。契約を白紙に戻す。一見これが最も簡潔な解決策に見える。だが——


 筆が止まった。


 誰が印を刻んだのか分からない。契約の原本すら完全な形では残っていない。破棄するには「契約の全条件」を把握している必要がある。知らない契約は破れない。商人なら当然のことだ。署名の前に全文を読む。全文が読めないなら、署名も破棄もできない。


 破棄条件の交渉相手が不明。破棄に必要な手続きが不明。破棄した場合の違約条項が不明。不明の三重苦だ。帳面にはでかでかと「不可」の二文字が並んだ。


 消去法だった。


 更新が現実的。つまり——バアルに会わなければ、何も始まらない。


 帳面を閉じた。


 油灯の炎が一度大きく揺れ、影が壁を走った。


 決まった。方針は決まった。感情で決めたのではない。帳面の上で、一つずつ条件を潰して、論理的に導いた結論だ。モトの条件は鎮痛剤に過ぎない。痛みを一時的に抑えるだけで、傷は治らない。根本治療はバアルとの直接交渉しかない。


 商人として——取引の原則に従う。


 帳面を棚に戻し、窓辺に立った。空の端がわずかに白み始めている。夜明け前の、最も暗い時間はもう過ぎた。


 方針は定まった。だがそのためには、まず一つの関門を越えなければならない。


 父だ。


 アシュタルは額に手を当て、短く息を吐いた。ヤムの海関かいかんを抜けるより、モトの使者と渡り合うより、おそらく手強い。ベン=シャハル商会を三十年率いてきた男。数字の隙を見逃さず、論理の甘さを容赦なく突く。血を分けた息子にだろうと、商談では一切の手加減がない。


 最も手強い交渉相手が、家の中にいる。


 帳面をもう一度開き、新しい頁に「対父交渉——条件整理」と書きつけた。


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