表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/140

商人の直感

 ヤリムの声が、また消えた。


 朝食の席だった。母が焼いたひらパンの香ばしい匂いが部屋に満ちている。オリーブ油と乾燥イチジクが小皿に盛られ、湯気の立つ羊の煮汁が卓の中央に置かれていた。いつもと変わらない朝の光景——のはずだった。


 ヤリムが口を開いた。何かを言おうとしていた。唇が動き、喉が震え、しかし声にならなかった。掠れた息だけが漏れた。


 弟は驚いた顔をして、もう一度口を動かした。今度は微かに音が出た。だが言葉にはなっていなかった。昨日までは——モトの「施し」が効いていた昨日までは、はしゃいだ声で「兄ちゃん、この煮汁美味い!」と叫んでいたのに。


 母の手が止まった。パンを千切る動作が途中で凍りついて、指先だけが微かに震えている。


「ヤリム」


 父の声は静かだった。商人が競り場で見せる、感情を押し殺した声。だがその奥に、隠しきれない焦りが滲んでいた。


 ヤリムは首を横に振った。大丈夫だよ、と言いたいのだろう。唇だけで笑顔を作ってみせた。十四歳の少年がする顔ではなかった。


 アシュタルは煮汁を一口啜った。味がした。自分にはちゃんと羊の脂の甘みが分かる。ヤリムには、これが分からない。二日前に戻った味覚が、また消えた。


 サンプルの効果が切れたのだ。


 商人なら誰でも知っている。無料の見本を渡し、客がその味を覚えた頃に引き上げる。一度知った快楽を失うのは、最初から知らなかったよりも遥かにつらい。モトの使者は、その手口を完璧に使いこなしていた。


 ヤリムが手元の粘土板タブレットに文字を刻んだ。書き慣れた動きだった。この二ヶ月で筆談がすっかり日常になってしまった。


 ——味、しなくなった。でも大丈夫。


 大丈夫。十四歳の弟が、兄と両親を気遣ってそう書いている。アシュタルの喉の奥が熱くなった。


「タグム」


 母が父の名を呼んだ。その声には、もう猶予はないという響きがあった。


「分かっている」


 父は立ち上がり、アシュタルに向き直った。


「あと半日だ。お前の『別の当て』とやらは、どうなっている」


 アシュタルは答えに窮した。アナトとの接触。バアルの不在と一族の契約の関係。帳簿から見つけた祖父の記録。それらは全て、まだ断片でしかなかった。確実に一族を救える道筋には、なっていない。


「進めています。ただ——」


「ただ、ではない」


 父の声が硬くなった。


「ヤリムの味覚が戻っていた二日間、あの子がどれだけ嬉しそうだったか。お前も見ただろう。あれが戻るなら——条件が多少厳しくても」


「魂の抵当は『多少』じゃありません」


「死後の話だ。今、目の前で弟が苦しんでいる。お前は死後の不確実な話と、今の確実な苦しみと、どちらを取る」


 商人としては、父の論理に隙がなかった。不確実な未来のリスクより、確実な現在の利益を取る。それが港湾商人の鉄則だ。アシュタルも何百回とそう判断してきた。


 だが。


「母さんはどう思う」


 母は長い沈黙の後、目を伏せた。


「ヤリムが笑っていてくれるなら——私は」


 母もモト側に傾いている。当然だった。子供の苦しみを前にして、死後の魂の行方を天秤にかけられる親がどこにいる。


 アシュタルは食卓の全員を見渡した。父。母。そして声を失った弟。三人の目が、同じ答えを求めていた。モトの条件を受け入れろ。弟を楽にしてやれ。


 孤立していた。


 論理でも、感情でも、この家の中でアシュタルだけが反対側に立っている。


「少しだけ、時間をください」


 食卓を立ち、自分の部屋に戻った。


 窓から差し込む朝の光が、壁に掛けた帳簿袋を照らしていた。商人の武器。数字と言葉。それだけで生きてきた。だが今、数字はモトの条件を支持し、言葉は家族を説得できなかった。


 帳簿を開いた。祖父の「血の誓約」の写し。粘土板の欠片から読み取った断片。「捧げものは死への供物にあらず」——この一文だけが、モトの取引に抵抗する唯一の根拠だった。だが根拠としては弱すぎる。「死への供物ではない」というだけで、では何なのかが分からない。


 帳簿を閉じた。


 論理的な反論が、ない。


 だが——商人の腹の底で、何かがきしんでいた。


 理屈ではない。数字で説明できるものでもない。長年の商売で身につけた、言語化できない感覚。帳簿の行間を読む力。相手の微かな声の震えから嘘を嗅ぐ能力。それらが総体となって、一つの警告を発していた。


 この取引はダメだ。


 根拠はなかった。モトの条件は表面上合理的で、使者の態度には一貫性があり、提示された結果は実証済みだった。ヤリムの味覚は実際に戻った。声も一時的に回復した。効果は本物だ。


 なのに腹の底が「やめろ」と言っている。


 アシュタルは窓辺に寄り、港を見下ろした。夕暮れの海が赤く染まっている。船が何隻か停泊し、荷降ろしの声が微かに聞こえた。


 商売で失敗したことがある。数字の上では完璧な取引だった。利鞘りざやも大きく、相手の信用も問題なかった。だが何かが引っかかって、結局手を引いた。翌月、その取引先は夜逃げした。帳簿は偽造だった。


 逆に、数字が合わない取引に飛び込んで成功したこともある。ティルスの船主との取引。航路のリスクは高く、保険も効かなかった。だが船主の目を見て「この人は逃げない」と思った。結果、嵐を越えて荷は届き、三倍の利益になった。


 商人の直感。経験の蓄積が言語化を拒む領域。それは神秘でも霊感でもない。何千回と人の目を見て、声を聞いて、嘘と本当を仕分けてきた結果、意識の表面に浮上しないまま蓄積された判断の集合体だ。


 その集合体が、モトの取引を拒んでいる。


 窓の外の景色が、朝から夕、夕から夜へと変わっていった。帳簿を何度開いても、答えは変わらなかった。モトの条件に論理で対抗する術がない。


 夕食の席に着いた。ヤリムが母の作った羊肉の煮込みを口に運んでいる。味がしないはずだ。それでも弟は箸を止めなかった。母の顔を見て、唇だけで「美味しい」と動かしてみせた。味が分からないのに。母を安心させるために。


 アシュタルは自分の皿に目を落とした。肉の脂が光を反射していた。この味を、弟は知らない。知っていたのに、奪われた。一度戻されて、また奪われた。二度目の喪失は一度目より深い。それを、モトの使者は計算していた。


 食後、父が書斎に引き揚げた。母が食器を片付け始めた。ヤリムが粘土板を持って自分の部屋に戻っていく。その背中を見送りながら、アシュタルは決意を固めた。


 今夜、アナトに会いに行く。


 夜になった。港の灯りが水面に揺れている。アシュタルは裏口から家を出て、一人で桟橋に向かった。


 星が出ていた。乾いた夜風が頬を撫で、潮の匂いを運んでくる。波が桟橋の杭を叩く音が、規則正しく繰り返されていた。


「根拠のない拒否は、商売では通用しない」


 呟いた。その通りだ。父に「直感です」と言ったところで鼻で笑われる。商人の家で、根拠のない主張は子供の駄々と同じだ。


 だが——根拠のある失敗より、根拠のない直感で救われたことが何度もある。


 星を見上げた。明日が期限だ。論理的な反論も、確実な代替案もない。あるのは、十八年の商人人生で培った嗅覚だけ。


 それで家族を守れるのか。


 波の音が答えなかった。星も黙っていた。アシュタルは桟橋の縁に座り、足を海面の上に投げ出した。


 明日までに、答えを出さなければならない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ