夜の問答
ウガルの郊外に、崩れかけた羊飼いの小屋がある。
アナトが逗留しているのはそこだった。神が人間の街に滞在するのに、まともな宿を取らないのかと聞いたことがある。「屋根があれば十分だ」と返された。戦争の女神にとって、寝床の質は考慮に値しない事柄らしかった。
夜の闇の中、アシュタルは小屋の前に立った。扉を叩く前に、一瞬ためらった。
ここに来た理由を、自分自身に問い直す。アナトと行く——その選択肢がまだ生きているかを確かめに来た。それだけだ。いや、それだけではない。正直に言えば、誰かに話を聞いてほしかった。家族の誰にも話せないことを。
扉を叩いた。
「誰だ」
中から声がした。低く、警戒を含んだ声。だが殺気はなかった。来訪者の正体を、既に気配で察しているのだろう。
「アシュタルです。話があります」
沈黙。そして扉が内側から開いた。
小屋の中には松明が一本だけ灯されていた。石壁に揺れる炎の影。粗末な寝台と、壁に立て掛けられた双剣。それだけの部屋だった。アナトは寝台の端に腰を下ろしていた。赤い髪を下ろし、戦装束の上に薄い布を羽織っている。金色の瞳が松明の光を受けて揺れていた。
「夜中に来るな。人間は夜は眠るものだろう」
「眠れないから来ました」
アナトが眉を上げた。皮肉を言い返すかと思ったが、黙って顎で椅子を示した。座れ、という意味だった。
アシュタルは唯一の椅子に腰を下ろした。木が軋む。この椅子も長くはもたないだろう。
「単刀直入に聞きます」
「好きにしろ」
「バアルが見つかる保証はありますか」
沈黙が落ちた。松明の炎が揺れ、影が壁を這った。
アナトは目を逸らさなかった。金色の瞳がアシュタルを真っ直ぐに見ていた。
「保証は——ない」
正直な答えだった。飾りもなく、弁解もなく、ただ事実だけが差し出された。モトの使者なら「モト様のお力は確実です」と微笑んだだろう。アナトは微笑まない。嘘をつけないのだ。不器用なまでに。
アシュタルは膝に肘をつき、指を組んだ。商談の姿勢だ。
「では、天秤を見てください」
アナトが微かに眉をひそめた。
「モト側。確実な回復。弟の味覚が戻り、声が出るようになる。代価は死後の魂。効果は実証済み。使者の態度は一貫しており、条件は明示されている」
息を吸った。
「あなた側。不確実な探索。バアルを見つけられるかどうか分からない。見つかったとして、バアルが一族の契約を解決してくれる保証もない。所要時間は不明。その間、弟の症状は進行し続ける」
言葉にすると、残酷なほど一方的だった。
「商人として——確実な方を選ぶのが定石です」
アナトは何も言わなかった。壁に背を預け、腕を組み、目を閉じた。反論の材料がないことを、この女神は知っている。口下手な者の沈黙には二種類ある。言葉を探している沈黙と、言葉がないことを認めている沈黙。これは後者だった。
長い間があった。
松明の炎が一度大きく揺らぎ、小屋の隅まで明るくなった。そしてまた暗くなった。
アナトが目を開いた。
切れ長の金色の瞳が、珍しく目を逸らさずにアシュタルを見ていた。見下ろすような視線ではなかった。真っ直ぐに、同じ高さから。
「私はお前に嘘はつかん」
低い声だった。
「保証はできない。バアルが見つかるかも分からん。お前の弟を救えるかも約束できない」
一拍。
「だが——バアルは生きている。力の残滓を、私は感じた。微かだが、確かに。冥界のどこかで、あいつはまだ存在している。見つけられる」
それは確証ではなかった。神の感覚による主観的な判断でしかない。商人の帳簿に記せるような、数字や契約条項ではない。
だが嘘ではなかった。
アシュタルは目を細めた。値踏みの目。十八年間、何百人もの商人や船乗りや詐欺師を相手にしてきた目。声の揺れ、視線の角度、呼吸の間合い——全てを読む目だ。
アナトの声に嘘の気配はなかった。迷いはあった。不安もあった。だが嘘はなかった。「見つけられる」と言ったとき、この女神は本気でそう信じていた。根拠が「力の残滓を感じた」だけであっても。
沈黙が続いた。アシュタルは指を組み直し、天井を仰いだ。木の梁に蜘蛛の巣が張っている。
モトの使者は完璧だった。条件は明確で、効果は実証済みで、態度は一貫していた。帳簿の上では非の打ちどころがない取引だ。
アナトは不完全だった。保証はなく、所要時間は不明で、成功の確率は示せなかった。帳簿の上では話にならない。
だが。
アシュタルは立ち上がった。椅子が軋んだ。
「分かりました。あなたと行きます」
アナトの目が見開かれた。金色の瞳に、松明の光が二つ映っていた。
「……なぜだ」
その声には困惑があった。純粋な、混じりけのない困惑。論理で負けていることをこの女神は自覚していた。だからこそ、論理を超えた判断が理解できなかった。
「商人は帳簿だけで取引しません」
アシュタルは言った。
「最後は、相手の目を見ます。帳簿が完璧でも、目が泳ぐ相手とは組まない。帳簿が穴だらけでも、目が嘘を知らない相手なら——賭ける価値がある」
一歩、アナトに近づいた。
「あなたの目は嘘を知らない目だ。それが僕の担保です」
アナトが言葉を失った。
文字通り、失った。唇が微かに開き、何かを言おうとして、閉じた。赤い髪が松明の風に揺れ、金色の瞳が一瞬揺らいだ。
人間にこう言われた経験がないのだろう。道具として、あるいは恐怖の対象として見られてきた。「信頼できる取引相手」として選ばれたのは——おそらく初めてだった。
「……勝手にしろ」
アナトはそっぽを向いた。声が微かにかすれていた。
「出立は明後日の夜明けだ。荷物をまとめておけ」
「はい」
小屋を出ると、夜風が汗ばんだ首筋を冷やした。星が先ほどより多く見えた。
振り返ると、小屋の窓から松明の光が漏れていた。アナトの影が壁に映っている。動いていなかった。立ったまま、何かを考えているのだろう。
人間に「あなたの目は嘘を知らない」と言われた戦争の女神が、何を考えているのか。アシュタルには分からなかった。分からなくてもいい。分かる必要があるのは、この女神が嘘をつかないということだけだ。
暗い道を歩きながら、自分の判断を反芻した。論理に反した選択をした。商人としては失格かもしれない。父なら鼻で笑うだろう。
だが、帳簿には載らない取引がある。
帰り道の途中で、港の広場を通った。夜番の水夫が焚き火を囲んでいる。その向こうに、モトの使者が逗留している宿の灯りが見えた。あの宿で、あの男は微笑んでいるのだろう。こちらの手の内を全て知った上で、期限が来るのを待っている。
だがもう、あの男の天秤には乗らない。
目の担保。嘘を知らない瞳。
それは銅貨何枚分にも換算できないが——アシュタルの十八年の商人人生が、今夜初めて、数字の外に価値を見出していた。
家の裏口に手をかけたとき、ふと思った。アナトが最後に「勝手にしろ」と言ったときの声。あれは怒りではなかった。かすれていた。何かを噛み殺した声だった。
何を噛み殺したのか——それもまた、帳簿には載らない情報だった。




