使者の正体
商人の情報網は、神殿の神託よりも正確だ——と、父はよく言っていた。
朝一番で港に向かった。宿帳の記録を確かめるためだ。港湾管理官のタリシュは父の古い取引相手で、アシュタルが菓子を持って行けば大抵のことは教えてくれる。管理棟の窓口で蜜漬けの胡桃を差し出すと、タリシュは太い指で一粒つまみ、にやりと笑った。
「また何か調べごとか。お前も父親に似て、情報に金を惜しまんな」
「情報は最も利回りの良い投資です。父の受け売りですが」
「黒い衣の外国商人? ああ、いるな。名はマリク。東方の香辛料商だと名乗っている。十日前にウガルに入った」
タリシュが宿帳を指で辿った。蜜漬けの胡桃を齧りながら、もう一粒手を伸ばした。
「入港記録は?」
「陸路だ。東門の通行記録に名前がある。荷は少量の香辛料の見本。関税も払っている。真面目な商人だぞ。税を誤魔化す気配もない」
完璧だった。完璧すぎた。
次に商人ギルドの書記に当たった。マリクという名の商人は、十日前にギルドへの一時登録を済ませている。登録料も手数料も滞りなく支払い済み。保証人は——ウガル在住の中堅商人ザキル。
ザキルの店に回った。路地裏の香辛料問屋で、店先には麻袋が積まれ、胡椒と肉桂の匂いが鼻をついた。
「ああ、マリクさんか。東方の商人でな。うちに香辛料を卸してくれた。品質が良くてね、保証人を頼まれて引き受けた。真面目な人だよ。口数は少ないが、約束は守る」
ザキルは何の疑いも持っていなかった。実際に香辛料を受け取り、品質を確認し、代金を払っている。取引は実在した。荷を確認させてもらうと、確かに上質の東方香辛料が保管されていた。
経歴が完璧すぎる。
宿帳、通行記録、ギルド登録、実際の取引、保証人の証言——全てが「最近ウガルに来た外国商人」を裏づけている。穴がない。後から調べられることを前提に、全ての証拠が用意されている。
本物の商人なら、どこかに雑さがある。記録の一つや二つは漏れるし、保証人との関係にもぎこちなさが残る。何かしら辻褄の合わない箇所が必ず一つはある——それが人間の営みというものだ。だがマリクの経歴には隙がなかった。隙のない経歴ほど怪しいものはない。
白昼の市場を横切りながら、考えた。状況証拠だけでは父を説得できない。かといって、このまま二日目が終われば——残りは一日だ。
覚悟を決めた。
マリクの宿は港の東側、中級の宿屋だった。外国商人が泊まるには妥当な格の宿。高すぎず安すぎず。ここまで計算されているのだろう。
宿の主人に声をかけ、マリクの部屋を聞いた。二階の奥。階段を上がる。板張りの階段が軋む音が、妙に大きく聞こえた。廊下の突き当たりの扉の前に立った。
手が、僅かに震えていた。
商談の前に手が震えるのは初めてではない。初めての単独商談——十五歳の時——もこうだった。あの時は取引先の目が怖かった。今は——今は、扉の向こうにあるものが怖い。人間ではないかもしれないものと、向かい合って座る恐怖。
だが恐怖は経費だ。払えるうちは払う。
扉を叩いた。
「どうぞ」
穏やかな声が返った。
部屋に入った。小さな部屋だった。寝台と机と椅子が一つずつ。窓から午後の光が差し込んでいる。埃が光の筋の中を舞っていた。マリクは机の前に座り、巻物を広げていた。
黒い長衣。銀の留め具。穏やかな微笑み。間近で見ると、肌が妙に滑らかだった。皺がないのではなく、皺がある場所に皺がないのだ。額の、目尻の、口元の——人間が長年生きていれば刻まれるはずの線が、どこにもない。三十代に見える顔に、時間の痕跡だけが欠落していた。
「おや。タグム殿のご子息ですね。お名前は確か——」
「アシュタルです。単刀直入に伺います」
震える手を背中に隠した。声だけは、平らに保った。帳面を読み上げるように、感情を排して。
「あなたはモトの使者ですね」
沈黙が降りた。窓の外で鳥が鳴いた。それ以外の音が、全て消えた。
マリクの微笑みが、変わらなかった。驚きも怒りも動揺もなく、ただ穏やかに——いや、穏やかさの質が変わった。商人の愛想笑いから、もっと深い何かに。底の見えない井戸を覗き込んだ時のような、静かな冷たさ。
「聡い」
一語だった。
「聡い人間だ」
褒め言葉ではなかった。家畜の毛並みを見て「良い牝牛だ」と値踏みする時の、あの声色。品定めだ。アシュタルという商品の品質を、今この瞬間に査定している。
「隠す必要もないでしょう」
マリクが巻物を巻き取り、机の上に置いた。動作に無駄がなかった。人間の動きに似ているが、人間の動きではない。滑らかすぎる。関節の遊びがない。
「モト様は寛大な方です。あなたの一族が抱える苦しみに心を痛めておられる」
「心を痛めている、と」
「ええ。捧げものの一族を、本来の状態に戻す力がモト様にはあります。味覚、声、触覚——全ての感覚を完全に回復できる。昨日、弟御に少しだけお見せしたとおりです」
やはり、と思った。ヤリムの回復はモトの力だった。試供品は試供品だと、自ら認めたようなものだ。
「条件は」
「単純です。捧げものの印を、モト様に捧げていただく。印の所有権をモト様に移していただければ、引き換えに感覚を戻します。加えて——魂をモト様の領域にお繋ぎします」
「魂の抵当」
アシュタルの口から、商売の言葉が出た。
「抵当、ですか。面白い表現ですね」
マリクの目が細まった。初めて、興味の色が浮かんだ。品定めの目から、もう少し個人的な好奇心が覗いた。
「正確に言えば、死後の魂がモト様の冥界に帰属します。生きている間は何の制約もありません。自由に暮らし、自由に商売し、自由に死ねます。ただ死後に——モト様の領域でお過ごしいただく。それだけのことです」
条件を頭の中で整理した。帳面がなくても、数字と条件は頭の中に並ぶ。商人の基本技能だ。
感覚の完全回復。代価は印の譲渡と死後の魂の帰属。生きている間は自由。表面上は——悪くない。
いや、悪くないどころか、合理的だった。死後のことなど誰にも分からない。生きている間に家族の苦しみが消えるなら、死後の「魂の帰属先」が変わったところで何が困る。父が賛成するのも当然の、論理的な条件設計だった。
だが——それこそが罠なのだ。合理的に見える取引ほど、見えない場所に刃が仕込んである。
「考えておきます」
「ええ、ごゆっくり。ただ——」
マリクが立ち上がった。アシュタルが背を向けて扉に手をかけた瞬間、背後から声がかかった。
「三日と言ったそうですね、お父上に。あと二日ですよ。ゆっくり考えなさい」
振り返った。
マリクは微笑んでいた。穏やかに、静かに、変わらず。
だが——影だけが、一瞬、壁の高さまで伸びていた。午後の光の角度では有り得ない長さの影が、壁を這い上がり、天井に届きかけて——瞬きした時には、元の長さに戻っていた。見間違いだと思いたかった。だが右の手首——布で隠した印のあたりが、微かに熱を持っていた。
宿を出た。
通りの陽光が、妙に眩しかった。生きている世界の光が、あの部屋の空気を洗い流すように肌に注いだ。
歩きながら、情報を整理した。
モトの使者はアシュタルの動向を把握している。父との私的な会話——「三日」という期限——を知っている。これは盗み聞きのレベルではない。タグム家の中に耳がある。影か、空気か、あるいはもっと超常的な何かが。
情報戦で後手に回っている。こちらの手札は筒抜けだ。残り二日。そして相手は、アシュタルがどのカードを切ろうとしているか——おそらく、既に知っている。
港の風が、冷たかった。




