死の味
ヤリムが、笑っていた。
声を上げて、笑っていた。
朝食の席で、弟は母が焼いた平麦麭をちぎり、口に入れた瞬間、目を丸くした。咀嚼する顔がみるみる変わった。驚きから、喜びへ。そして——声が出た。掠れて、細くて、途切れがちだったが、確かに声だった。
「美味い! 母さん、これ美味いよ!」
母の手から匙が落ちた。陶器の匙が卓を叩く乾いた音が、静まった部屋に響いた。
父が箸を止め、弟の顔を見た。母が椅子から立ち上がりかけて、膝が笑って座り直した。
「ヤリム、声が——」
「出てる! 出てるよ、母さん! ちょっと変だけど、出てる!」
ヤリムは興奮して次から次へと言葉を発した。ここ数ヶ月、筆談板でしか伝えられなかった言葉が、堰を切ったように溢れ出す。味が分かる。塩の味、パンの甘み、煮込みの香辛料の辛み。全部分かる。舌の上で味が弾けるのが嬉しくて、ヤリムは手当たり次第に食卓のものを口に運んだ。オリーブの塩漬け、干し葡萄、蜂蜜を垂らした麦粥。一口ごとに目を輝かせ、感想を叫んだ。
母が泣いた。声を殺さず、食卓に突っ伏して泣いた。肩が震え、嗚咽が漏れた。父がその背中にそっと手を置いた。父の目も、赤かった。商人の鉄面皮の奥で、何かが崩れかけている。
アシュタルは笑った。弟の声を聞いて、胸の奥が熱くなった。それは嘘ではなかった。弟の笑顔は本物だ。母の涙は本物だ。父の安堵は本物だ。この食卓にあるもの全てが本物で、それだけは疑いようがなかった。
だが同時に、頭の別の部分が冷えていた。
——これは交渉術だ。
商人なら誰でも知っている。試供品の手法。契約の前に、少しだけ商品を味見させる。良い品だと分かれば、客は財布の紐を緩める。無料で渡すから効果がある。タダほど高いものはない——それは市場の童でも知っている常識だ。
昨夜、モトの使者が父に「誠意として」何かを渡したのだろう。護符か薬か、あるいはもっと直接的な神力の欠片か。それがヤリムの感覚を一時的に回復させた。
《《一時的に》》。
その三文字が、頭の中で赤く点滅していた。
「兄ちゃん、食べないの?」
ヤリムが煮込みの皿をこちらに寄せた。声はまだ掠れていたが、嬉しそうだった。十四歳の弟。声変わりの途中で声を失い、筆談板が唯一の言葉だった少年が、今は口いっぱいにパンを頬張って笑っている。
「食べるよ。久しぶりにヤリムの声が聞けて、なんだか腹が減った」
匙を動かした。口に運んだ。味がした。当たり前だ。アシュタルの感覚は正常だった。それなのに、今朝の煮込みはどこか味気なかった。
食後、父が書斎で帳面を広げている間に、アシュタルは弟の部屋を覗いた。
ヤリムは窓辺に座って、独り言を言っていた。何を言っているのか聞き取れないほど小さな声で、しかし嬉しそうに、ずっと何かを呟いている。声が出ることが嬉しくて、黙っていられないのだ。好きな歌の断片、友達の名前、食べ物の感想——全てが声になる喜び。筆談板は膝の上に置かれたまま、使われていなかった。
胸が軋んだ。
この回復は続かない。アシュタルにはそれが分かる。試供品が永続するなら、商人は契約書を作らない。モトの使者はこの「味見」の後に、本契約を持ちかけてくるだろう。回復が切れた時——ヤリムが再び声を失った時——その絶望は、以前よりもずっと深くなる。一度取り戻したものを再び奪われる痛みは、最初から持っていなかった痛みの比ではない。知っている味を失うのと、知らない味を知らないままでいるのとでは、苦しみの深さが根本から違う。
商人はそれを知っている。だから試供品は効くのだ。
自分の武器が、自分の家族に向けられている。しかも、使い手は自分よりも遥かに巧い。
居間に戻ると、母が台所の片隅で手を合わせていた。壁の棚にあるバアルの護符に向かって。
「アシュタル」
母の声は穏やかだった。目元はまだ赤い。
「あの商人が紹介してくれた医師のおかげかしら。ヤリムの声が戻ったの」
「……そうかもしれません」
「ありがたいことね」
否定できなかった。母にとって、弟の声が戻ったことは奇跡だ。その奇跡の出所が何であれ、弟が笑っている事実を否定する権利は、アシュタルにはない。
だが知っている。この奇跡には請求書がつく。
午後になって、ヤリムの声が少しずつ掠れ始めた。昼過ぎにはまだ会話ができていたが、夕方には囁くのがやっとになった。声が細くなるにつれて、弟の表情から光が消えていった。朝の輝きが嘘のように、夕暮れの部屋で弟は黙って窓の外を見つめていた。筆談板を手に取りかけて——やめた。板を裏返して伏せた。書きたくないのだ。声で話せたのに、また板に戻るのが。
ヤリムの目に、影が落ちた。
「兄ちゃん」
囁きだった。唇が動いているのがかろうじて分かる程度の、消え入りそうな声。
「また、戻るかな」
アシュタルは弟の頭をくしゃりと撫でた。黒い髪は柔らかかった。
「戻るさ。約束する」
根拠のない約束だった。商人が最もしてはいけない種類の約束。確証のない未来を担保にした、空手形。だが弟の前で「分からない」とは言えなかった。
ヤリムは頷いて、筆談板を取り上げた。裏返していた板を元に戻し、文字を書いた。
「あの人に感謝しないとね」
あの人。モトの使者。弟にとっては「声を一日だけ返してくれた恩人」だ。
笑顔を作った。弟に向けて、いつもの兄の笑顔を。
「そうだな」
部屋を出て、廊下で壁に背をもたせた。
目を閉じた。
弟の無邪気な感謝の言葉が、耳の奥でこだましていた。あの言葉は刃物だった。悪意なき刃物。弟はただ嬉しかっただけだ。声が出て、味が分かって、家族と笑えて。それだけのことが、こんなにも残酷な武器になる。
試供品の次には、必ず本請求が来る。
一時的な回復を味わった家族は、次にモトの使者が条件を提示した時、以前よりもずっと受け入れやすくなっている。ヤリムの声を取り戻せるなら——あの笑顔をもう一度見られるなら——多少の代価は払ってもいい。そう思うのは当然だ。人間の情として、当然の反応だ。
モトの使者は、それを計算している。
壁に預けた背中が冷たかった。
残り二日。
帳面を開いた。今日の出来事を記録する。日付、ヤリムの回復、回復の持続時間——およそ半日——、症状の再発。数字と事実だけを、感情を交えずに。
帳面の最後に、一行だけ書き加えた。
——試供品の後には、本請求が来る。




