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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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二つの商談

 翌朝、父が家族を居間に集めた。


 タグム家の居間は質素だった。商人の家らしく、壁には帳面の束が整然と並び、窓辺には天秤と分銅が置かれている。装飾品の類はない。父の口癖——「飾りに使う金は、帳面に書けない損失だ」——が隅々まで行き渡った部屋だった。壁に掛けられた棚板には、取引先から贈られた護符が一つだけ。バアルの雷紋が刻まれた素焼きの板。母が毎朝手を合わせている。


 父タグムは部屋の奥、帳場で使う低い机の前に腰を据えていた。母が隣に座り、ヤリムはアシュタルの横に腰を下ろして筆談板を膝に載せている。


「昨日の商人の話をする」


 父の声は落ち着いていた。商談の席と同じ声だ。この家では家族会議が経営会議のように進む。アシュタルが子供の頃からそうだった。感情ではなく、条件と数字で話す。それがタグム家の流儀だ。泣きたい時も怒りたい時も、まず帳面を開く。それが父の教えだった。


「条件を整理した。まず、滞貨の処分。内陸ルートを使い、六割の値でさばく。現状の市場で五割がいいところだから、一割の上乗せだ」


 父が帳面を広げ、数字を指で示した。帳面には昨夜のうちに条件が整理されていた。几帳面な父の字が、行間を揃えて並んでいる。


「次に、商会への融資。低利で、返済は二年据え置き。利率は市場の半分だ。加えて——」


 父の目がヤリムに向いた。


「家族の体調に関して、知り合いの医師を紹介すると言っていた。腕の良い者らしい」


 母が息を呑んだ。「本当に?」


「条件は確認した。法外な要求はない。商人として見れば、筋の通った提案だ」


 母の目に光が宿った。この数ヶ月、母は家族の体調を案じ続けて痩せた。頬がこけ、手が震え、夜中に一人で泣いている声をアシュタルは何度も聞いた。母にとって「医師の紹介」は、藁にもすがる思いの先にある、ようやく見えた具体的な光だった。


 アシュタルは黙って聞いていた。父の分析は正確だった。数字だけを見れば、断る理由がない。一つ一つの条件が現実的で、全体として見ても均衡が取れている。プロの商人が組み立てた、穴のない提案だった。


 だからこそ怖い。


 ヤリムが筆談板に書いた。


「兄ちゃんはどう思う?」


 四つの目がアシュタルに向いた。父、母、弟。家族の視線が肌に刺さる。


 口を開きかけて、閉じた。「あの男はモトの使者だ」——その一言を、どう包装すればいい。商人の家族に、数字の裏づけもなく「勘」で反対しろと言えるだろうか。父は帳面に書けない話を信じない。母は希望を必要としている。弟は声を取り戻したいだけだ。


「悪くない条件だと思います」


 まず認めた。これは交渉の基本だ。相手の主張を全否定すれば壁ができる。壁を作ってからでは、どんな正論も届かない。


「ただ、気になる点が三つあります」


 父の目が鋭くなった。商人の目だ。息子の言葉ではなく、対等な商人の意見として聞く構えに切り替わった。


「一つ。あの商人の出自が不明です。ウガルの商人ギルドに登録がない。港の入港記録も確認しましたが、該当する船がありません」


「独自のルートで来た可能性もある。陸路なら港の記録には載らん」


「二つ。条件が良すぎます。滞貨処分の一割上乗せ、低利融資、返済据え置き——どれも単体なら珍しくありませんが、三つ揃えて初対面の商会に提示するのは異常です。商人が利を度外視して動く理由は一つしかない。別のところで回収するつもりです」


 父が腕を組んだ。否定はしなかった。否定できないのだ。父自身も商人だから、その理屈は分かる。


「三つ目。あの男は父上に会いに来ました。こちらから探したのではなく、向こうが訪ねてきた。売り手が買い手を選んで訪問する取引には、常に裏があります」


 沈黙が落ちた。


 母が不安そうに父を見た。ヤリムは筆談板を握ったまま、兄と父の顔を交互に見ている。空気が張り詰めていた。商談の席で値切りが佳境に入った時の、あの緊張。


「お前の言い分は分かった」


 父の声は静かだった。


「では聞くが——お前に別の当てはあるのか」


 胸が詰まった。


 ある、とは言えなかった。正確には——ある。アナトとの契約がある。戦争の女神が、バアルを取り戻すために力を貸すと言っている。だがそれを父にどう説明する。「女神と契約しました」。商人の父が、帳面に書けない話を信じるだろうか。神を見たこともない父に、神との取引を信じろと言うのか。


「あります」


 言った。言ってしまった。自分でも驚くほど、声は平らだった。


「どんな当てだ」


「まだ詳しくは話せません。ただ、あの商人の条件よりも——」


「話せないなら、ないのと同じだ」


 父の声が冷えた。怒りではなかった。失望でもなかった。商人が不確実な情報を切り捨てる時の、あの乾いた判断だった。帳面に書けないものは存在しない。父はそう生きてきた。


「アシュタル。お前は優秀な商人だ。勘も鋭い。だが今、この家族が置かれている状況を見ろ」


 父がヤリムの方を見た。声を失った弟。筆談板でしか意思を伝えられない十四歳の少年。母の震える手。日に日に鈍くなる感覚。この家に降りかかった呪いが、じわじわと家族を蝕んでいる。


「ヤリムの声が戻る可能性がある。母さんの手の震えが止まる可能性がある。確実な道がそこにあるのに、『まだ話せない別の当て』を待てというのか」


 反論できなかった。父の論理は正しい。目の前の苦痛を取り除ける手段があるのに、不確実な代替案のために待てというのは——商人の判断としては、間違っている。


 ヤリムが筆談板に何か書いた。アシュタルの方に向ける。


「兄ちゃんの当てって何?」


 丸い字だった。十四歳の、まだ角の取れていない字。疑いのない、純粋な問いかけだった。


「——もう少し待ってくれ。僕にも別の当てがある」


 父に向かって言った。


「何日だ」


「三日」


 三日。根拠のない数字だった。だがアナトに連絡を取り、何らかの具体的な対抗案を示すには、最低でもそれだけ必要だった。三日で奇跡を起こせるかと言われれば——分からない。だが三日あれば、少なくとも動ける。


 父が立ち上がった。帳面を閉じ、天秤の横に置いた。


「三日だけだ。それで何もなければ、あの商人の話を聞く」


 父の背中が居間の奥に消えた。


 母が心配そうにアシュタルを見た。「大丈夫なの」とは聞かなかった。聞いても仕方がないと分かっているのだ。代わりに、そっとヤリムの頭を撫でて、台所に向かった。


 ヤリムが筆談板に書いた。


「三日あれば足りる?」


 アシュタルは笑顔を作った。商人の笑顔。相手を安心させるための、計算された表情。弟に向けるべき顔ではないと分かっていた。だが他にどんな顔をすればいい。


「足りるさ。兄ちゃんを誰だと思ってる」


 ヤリムが小さく笑った。声は出なかったが、目が笑っていた。


 居間に一人残された。


 三日。たった三日。モトの使者の条件に対抗できる何かを、七十二刻しちじゅうにこくの間に用意しなければならない。


 天秤が机の上で静かに揺れていた。片方の皿にはモトの条件——確実で、具体的で、合理的。もう片方の皿には、アシュタルの「別の当て」——不確実で、説明もできず、数字にもならない。


 天秤は、誰が見てもモトの側に傾いていた。


 窓の外で、乾いた風が砂を巻き上げた。三日後の同じ風が吹く頃、この天秤はどちらに落ち着いているのだろう。


 時計の砂が、落ち始めた。


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