黒い商人
その男は、港の喧騒に溶け込むのが巧すぎた。
昼下がりのウガルの商業地区は、いつもどおり騒がしかった。荷揚げの掛け声、値切りの怒鳴り声、ロバの嘶き。乾いた風が砂埃を巻き上げ、日除け布をばたばたと鳴らしている。香辛料の匂いと潮の匂いが混じり合い、鼻の奥にへばりつく。ウガルの午後はいつもこうだ。商人たちは汗を拭い、水売りの少年が甲高い声で客を呼び、荷運び人足が腰をさすりながら木陰で干し肉を齧っている。
その雑踏の中を、黒い衣装の男が歩いていた。
外国商人だろう。仕立ての良い長衣に銀の留め具。歩き方に無駄がなく、物腰は穏やかで、すれ違う商人たちに柔らかく会釈を返している。一見すると、どこにでもいる裕福な旅商人だった。
だが、アシュタルの目はごまかせなかった。
屋台の干し無花果を齧りながら、通りの向こうを歩く男を観察した。違和感は三つ。一つ、あの男の衣装に旅の汚れがない。港に着いたばかりの商人があれほど清潔なのは不自然だ。砂漠を越えた衣には必ず裾に砂がつく。海路で来たなら潮で布が硬くなる。あの男の黒衣にはどちらの痕跡もなかった。二つ、荷を持っていない。従者も連れていない。手ぶらの商人は商人ではない。商品なき商人など、剣なき兵士と同じだ。三つ——影が濃い。
三つ目は気のせいかもしれなかった。だが午後の陽が斜めに差す通りで、他の人間の影が薄く伸びているのに対し、あの男の足元だけが妙に暗い。まるで影が男にしがみついているように見えた。他の通行人の影は陽に透けて地面の色が覗くのに、あの男の影だけは真黒で底が見えない。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。だが商人の勘は「気のせい」を信じない。帳面の数字が一厘合わない時、「気のせい」で済ませれば翌月には一朱の損になる。父の口癖だ。
男はタグム商会の方角へ歩いていった。
干し無花果の種を吐き出した。甘いはずの果実が、喉の奥で苦く感じた。
追いかけるべきか迷った。だが今、正面から割って入れば不審がられるのはこちらだ。父は「息子が客を追い払った」と激怒するだろう。商会の跡取りとして、それは下策だった。
代わりに、通りの反対側を早足で歩いた。商業地区の裏道を使えば、タグム商会の裏口に先回りできる。子供の頃から使い慣れた抜け道だ。
裏口から倉庫に入り、帳場との仕切り壁に耳を寄せた。薄い木板一枚を隔てて、父の声が聞こえた。
「——それは、ずいぶんと良い条件ですな」
父タグムの声には、久しぶりに聞く張りがあった。商談が乗っている時の声だ。背筋を伸ばし、声に力を入れ、しかし決して前のめりにはならない。熟練の商人の声。アシュタルはこの声を子供の頃から聞いて育った。父が本気の商談をしている時だけ出す、あの低い響き。
「恐れ入ります。私どもの主は、ウガルの商人の質の高さを以前から評価しておりまして」
男の声は低く、穏やかで、妙に聞き取りやすかった。周囲の雑音が消えるような錯覚を覚える声だった。
「特にタグム殿の商会は、港湾都市でも屈指の信頼を誇ると伺っております。ですから、最初にお声がけをさせていただいた次第です」
上手い。滑らかに相手を持ち上げ、特別感を演出している。「最初にお声がけ」——この一言で、父は自分が選ばれた側だと感じる。商談の主導権を相手が握ったまま、父に「選択した」と錯覚させる技法だ。実際には男がタグム商会を選んで訪ねてきたのだから、主導権は男にある。しかし言い回し一つで、立場を逆転させて見せる。教本に載せたいくらいの話術だった。
そして、それが恐ろしかった。
あの男の話術は完璧すぎる。商人として何十年も場数を踏んだ人間でも、あそこまで淀みなく相手の懐に入れるものではない。父ほどの商人が、初対面の相手にあれだけ声を弾ませている。それ自体が異常だった。
「具体的な条件をお話ししてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「まず、貴商会の抱える滞貨を、私どもの経路で捌きます。内陸のルートに独自の繋がりがございまして。加えて——」
男が具体的な数字を挙げ始めた。取引量、利率、納期。どれも現実的で、しかし現状の商会には破格の好条件だった。家族が「生ける死人」の症状に蝕まれて以来、父は商談に集中できず、商会の業績は落ちている。取引先も離れ始めている。そこへ、この条件。干上がった畑に降る雨のようなものだ。父が飛びつきたくなるのは当然だった。
旨すぎる。
アシュタルの腹の底が冷えた。商人の鉄則——条件が良すぎる取引には、必ず見えない代価がある。
帳場での商談が終わる気配がした。壁から離れ、裏口から外に出た。
表通りに回ると、ちょうど男が商会の表口から出てくるところだった。午後の陽光の下、男が一瞬こちらを見た——ような気がした。穏やかな微笑み。目が合ったのか、合っていないのか判断がつかない。男はそのまま通りを歩き去った。
影が、一瞬だけ、有り得ない方向に伸びた。陽の角度とは無関係に、アシュタルの方へ。
——気のせいだ。
気のせいだと、今度は自分に言い聞かせることができなかった。
夕食の席で、父が切り出した。
「アシュタル。今日、面白い商人が来た」
母が鍋から煮込みをよそいながら顔を上げた。弟のヤリムは声が出ないまま、兄と父の顔を交互に見ている。
「黒い衣の外国商人?」
「知っているのか」
「港で見かけました」
嘘ではない。半分だけの事実だ。
「条件がいい。具体的で、筋が通っている。久しぶりにまともな商談だった」
父の目が明るかった。ここ数ヶ月、重い影を落としていた目に、商人としての輝きが戻っている。母もその表情を嬉しそうに見つめていた。
ヤリムが筆談板に書いた。「父さん、元気そう」。丸い字だった。
家族が笑った。この食卓に笑い声が響くのは、いつぶりだろう。
アシュタルも笑った。口の端を上げ、目を細め、いつもの人懐っこい笑顔を作った。
胃の底は、凍っていた。
あの男はモトの使者だ。確証はない。だが商人の勘が——帳面の数字が合わない時に背中を這う、あの冷たい感覚が——叫んでいる。あれは人間ではない。少なくとも、ただの商人ではない。
父にどう伝えればいい。「あの商人はモトの手先です」と言って、信じてもらえるだろうか。根拠は「影が濃かった」と「話が上手すぎた」。商人の父が納得する根拠には程遠い。
食卓の向こうで、父が母に条件の概要を説明している。母の表情が明るくなっていく。ヤリムが嬉しそうに頷いている。
家族の笑顔が、刃物のように胸に刺さった。
この笑顔を守りたい。だが、あの男の差し出す「救い」を受け取れば、守れるものも守れなくなるかもしれない。
知っているのは自分だけだ。あの男の正体に気づいているのは、この家族の中でアシュタルだけだ。
情報の非対称。商人が最も恐れるもの。それが今、自分の家族の食卓に静かに座っている。




